琥珀色の戯言

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【読書感想】美意識を磨く ☆☆☆


Kindle版もあります。

美意識を磨く (平凡社新書0952)

美意識を磨く (平凡社新書0952)

アートはビジネスに役立つ?エリートは美意識を鍛えるべき?
近年、ビジネスにおけるアートや美意識の役割が注目されている。世界一位のオークション会社クリスティーズの東洋美術部門スペシャリストとして、歴史的名品とトップコレクターに長年接してきた著者がオークションの最前線で磨いてきたアートを見る眼とは?
現代美術作家杉本博司氏推薦!美意識を磨き、アートと生きることを楽しむ手引き書。


 これからのビジネスには、アートのセンスが必要だ!という内容の本を最近よく見かけるのです。この本のように、ベストセラーになっているものもあります。


fujipon.hatenadiary.com


 もはや「論理的思考」で他者と差別化するのは難しい時代になっていて、サイエンスでは説明できない直感力ともいうべき「アート」が、これからの勝負どころになる、ということなのです。

 しかしながら、「アートのセンス」あるいは「美意識」って、どうやって身に付ければいいのか?という疑問はありますよね。

 著者は、浮世絵研究者の父親と神社のひとり娘という母親のあいだに生まれ、幼少時から能や歌舞伎やお茶や浮世絵に親しんできたそうです。
 しかしながら、そういう環境にかえって反発した時期もあり、クリムトの『接吻』に強く惹かれたり、広告代理店で激務をこなしたりした末に、クリスティーズに採用され、現在は、クリスティーズジャパン代表取締役社長を務めておられます。

 著者のエピソードを読むと、「食は三代」ではないですが、本人は反発していたとしても、子どもの頃から日本の美術や芸能に触れてきたというの大きいし、「美意識」というのは、そう簡単に習得できるようなものではないよなあ、と考えずにはいられないところもあるのです。
 資本主義を突き詰め、人口知能が進化してくると、学校で勉強するだけでは差がつかず、「生まれ」というか「文化資本」みたいなものが重要視される世界になる、というのは、そういう階級の生まれではない僕にとっては「なんだかなあ」という気がします。

 もちろん、「美意識」を美術品を鑑定したり、芸術を観賞する力、というのではなくて、「物事を多面的に、独自の基準をもってみる力」だと定義すれば、美術館や劇場でなくても、身につけられるものなのかもしれませんが。


 著者は「若い頃から自然と身に付けてきた絵の観かた」を紹介しています。

 何か展覧会に行ったとする。最初の部屋を観終わったら、その部屋で一番気に入った作品をメモして、その絵に関する感想も記しておく。色が綺麗だ。構図が大胆だ、ちょっと変だ、厚塗りの絵具に迫力があるなど、何でもよいから印象に残ったことをメモに残し、再びその絵を確かめに行き、次の部屋に移る。
 次の部屋も足早に回ったら、前室と同じように、最後にその部屋の自分イチ押しの絵を決めて感想を記し、その絵の前に戻って、自分が書いたメモを見ながら再度眺めて、追加の感想があったらメモを加える。
 この作業を、展覧会のすべての展示室でやるのである。そして、全作品を観終わったところで、例えば五部屋あったら、自分が選んだ五つの「イチ押し作品」に1~5位まで順位を付けてみる。そして時間とお金に余裕があったら、展覧会図録を買って帰り、絵の記憶が薄れない内に自分が選んだ「ベストファイブ」についての解説文を読む。こんな調子で年間五回、展覧会に行ったとすれば、今度はすべての展覧会からの「年間ベストテン」を決めて、今年の第1位「自分的イチ押し大賞」を決定するのである。
 そうすればまた別の展覧会に行った時に「そういえばこの絵、あの時トップスリーに選んだ絵に似ているな」と感じることがあるかもしれない。それは、例えば同じ画派のグループに属する画家の作品かもしれないし、もしかしたら作家の活躍した時代や街が、一緒かもしれない。また、自分が好きな絵が分かってくると、どうも苦手、という絵も分かってる……それも一つの有益な感性である。
 また、同じ一人の画家の作品でも、人物画よりも橋や建物を描いたものの方が好きだ、ということもあるだろう。この鑑賞法には、少しずつ自分の「好み」が見えてくる、いってみれば謎解きの要素がある。人は普通に展覧会に行っても、自分が一体どういう絵が好きか、その作品が好きなのはなぜか、とまではなかなか考えないものである。好きだから好きだ、自然とそうなる、と曖昧なままにしている人が多い。


 これを読んで、僕は作家の山本文緒さんの『日々是作文』(文春文庫)というエッセイの中にあった文章を思い出したのです。

しかし恋愛に学校はない。こればかりは我流である。我流ではあるが、十五歳で初めてボーイフレンドというものを持ってから幾歳月。好きこそものの上手なれ。数え切れない程の恋愛失敗事例をもってして、少しでもみなさまのお役に立てたらと思います。
 基礎の基礎なので、まず「好きな男性の作り方」からですよ。
 というのは、最近まわりの三十代女性数人から「好きな人ができない」と相談をもちかけられたのだ。「え?」と耳を疑った。私なんか好きな男の人なんかすぐにぼろぼろできるけどな。それともゲートボールのゲートくらい私の男性に対するハードルが低いのか。
 好きな男性。それはいないよりはいた方が楽しいじゃないか。うまくいくとかいかないとか、結婚してるとかしてないとかは置いておいて、まったく誰にもときめかないというのは日々の張りとしてどうだろう。楽といえば楽なので、その方がいい人は無理して作る必要はまったくないと思うが、彼女達は「好きな男性が欲しい」と訴えているのだ。
 そのうちの1人が「山本さんはいつもスイッチ入ってますもんね」と気になる発言をした。恋愛スイッチが常にオンの状態だというのだ。失敬な、と最初思ったが、よくよく考えてみると、もしかしてこういうことかもと思い当たった。
 私は彼女に質問してみた。
SMAPで好きなのは誰?」
「うーん。全員」
 これだ、これ。男性の群を眺めるとき、私は無意識に「好きな順番」あるいは「マシな順番」をつけて見ている。大勢の飲み会ではもちろんのこと、年配のおじさましかいない会食の席でも、男性が6人いたらAからFまでマイ順位をつける。その基準は、歳も肩書きも関係なく単なる「見た感じ話した感じ」であり、その後どうこうしようとはりきるわけではない。たった一度しか会わない人達でも、言葉さえ交わさない人達でも、ターミネーターに装備されているスコープのようなもので男性陣にランク付けをする。もし男性陣が聞いたら「お前にEだのFだの言われたかねえよ」と言われることは重々承知の上である。だからSMAPだってキムタクだったり慎吾ちゃんだったり日によって変わるが、必ず一番からビリまでいるんである。
 この勝手な恋愛スコープで世の中を見ている女性は稀有なのかと、まわりの人達に聞いたところ案外いた。例外なく恋愛に積極的で、痛い目にあってもへこたれない強者どもだった(夢の跡だったりもしているが)。
 そんな目でいちいち男を見るなんて媚びてるみたいだし発情しっぱなしみたいで気持ち悪い、と思った方は一生そうしていて下さい。何もしない「ありのままの自分」という努力しない状態のままで、王子様が現れる奇跡を煎餅でもかじりながら待っていて下さい。
 順位付けの練習をしておくと、いざとなったときに瞬発力が違うように思う。無意識のうちにAの人にあなたは話しかける癖がつくはす。それがまず第一歩。
 さあ、たった今から恋愛スコープをつけてまわりを見渡してみよう。つまらない会社もつらい通勤電車も、スイッチを入れるだけで違う色に見えるかもしれませんよ。


 目の前の人に順番をつける、なんていうのは失礼な気がするかもしれませんが、「何かを好きになろうとする」「自分の好みを知る」ためには、「限られた選択肢のなかで、強引にでも『これがいい!』というのを決めてみる」というのは有用なのだと思います。
 もちろん、「恋愛スコープ」の場合は、相手にそういうことをしているのを悟られないようにするべきでしょうけど。

 僕は図書館の本棚をランダムに選んで、「このジャンルに興味がなかったり、面白そうな本がないと感じても、この棚のなかで、一番読みたい本を借りて帰る」というのをやっていたことがあります。そうでもしないと、どうしても「読みたいものを読む」だけになってしまって、自分の世界が広がらないと感じていたので。
 まあ、アートだって、恋愛だって、読書だって、「やりたくないことをそこまでしてやる必要があるのか?」という疑問はあるわけで、結局のところ、この本の著者も山本さんも僕も「もともと好きなことだから、そういうことをやれていた」というのが事実なのかもしれませんね。

 「アート」というのは、一筋縄ではいかない、というか、「ちょっと知っているくらいの人の蘊蓄がいちばんつまらない」ということもあるのです。

 あと、日本の経済的な苦境に比例するように、アートの世界での日本美術が軽視されてきている、というのは、なんだか寂しく感じました。でも、それが「世界の現実」なのでしょう。

 著者は、自分の「美の琴線」を知るためには、自分の趣味を限定せず、いろんなものを観に行くことをすすめています。

 一つ、某美術館長から聞いた、おもしろい例を挙げよう。
 その館長のお祖父様、お父様は日本でも有数の古美術コレクターで、話は先代の奥様、現館長のお母さまのことである。
 その館長氏だが、美術館ができ、家のコレクションを引き継いで館長になる前は、現代美術の画商をしていて、当時未だまったくの無名作家だった村上隆氏の作品を扱ったりしていた。
 さて、館長はその無名時代の村上氏の展覧会を、年に1回は画廊で必ず開催していたのだが、そのたびにお母様から、
 「あなた、またこんな変なもの飾って! 毎回毎回、いい加減にしなさい!」
 と怒られていたという。
 が、村上氏の展覧会を始めて何回か目に、館長はお母様にこういったという。
 「お母さん、お母さんみたいにお祖父さんや親父に散々いいものを見させられて、勉強させられた人に、毎回『こんな酷いもん!』っていわせ続けるアートって、もしかしたらどこか見どころあるんじゃないか? どうでもいいアートだったら、いつも無視するし、何もいわないんでしょ?」
 確かに国宝・重文を屋敷内に持つ家に嫁いできて以来、人生を通して世界の一流美術品を観てきたお母様は、息子のそのことばを聞いて、ハッとしたという。どうでもいいアートは話にも出さないし、興味もない。批判・文句をいう時間すら無駄と思っていたからだ。その後の村上氏の世界的活躍はご存知の通り──この話も「琴線」に触れる好例ではないかと思う。


 「好き」の反対は「嫌い」ではなくて、「興味がない」だと、よく言われるのですが、このエピソードを読むと、確かにそんな気がしてきます。
 僕も「大嫌いなはずなのに、読んでしまう作家やブログ」ってありますし。
 アンチ巨人である僕は、まだ野球中継がゴールデンタイムに行われていた子供の頃、「巨人が負けるのを見るために野球中継にチャンネルを合わせる」と言っていましたが、向こうからみれば「視聴率を稼げるという意味では、ファンもアンチも一緒」なのです。
 ものすごい反発を受けるアートというのは、それだけ、人の心をざわめかせる力がある、とも言える。
 それもアートの難しさであり、面白さでもあるのでしょう。


美意識の値段 (集英社新書)

美意識の値段 (集英社新書)

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