琥珀色の戯言

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「飯野賢治」という名の永遠のリグレット

ゲームクリエーター飯野賢治さん死去 「Dの食卓」作者(朝日新聞デジタル)より

 飯野賢治さん(いいの・けんじ=ゲームクリエーター)が20日、高血圧性心不全で死去、42歳。
1995年に代表作のゲームソフト「Dの食卓」を発表。


飯野賢治さんの訃報には驚いたというか、愕然とした。
知っている人、そして憎んではいなかった人の訃報を耳にしたとき、やはり悲しいとか寂しいとかいう気持ちにはなるものだけれども、飯野さんに関しては、「ウソだろ?」としか思えなかったのだ。
人ってさ、いつ死んでもおかしくないものではあるはずなのにね。
正直、飯野さんって、あんな体格で、健康的な生活をしているとは思えなかったけど、そう簡単に死んでしまう人だとは思わなかったというか、死ぬ人だという気がまったくしていなくって。
というより、いつまで休んでるんだ、早く新しいゲーム作ってくれよ、と。


飯野さんがゲームデザイナーとしていちばん勢力的に活動していたのは、1990年代半ばから、後半にかけてだった。
当時の飯野さんは「なんだこの出しゃばりな人は……」と呆れてしまうくらい、ゲーム雑誌によく登場して、大言壮語を放っていたものだった。
とくに「セガ御用雑誌」であった『BEEP!』には頻繁に登場していて、奥様までエッセイを連載していた。
セガファンにとっては、プレステを裏切って(しかも、プレイステーションエキスポの会場で、いきなり発売予定機種の『プレイステーション』が『セガサターン』に変わるという挑戦的な「新作発表」をして)、セガ陣営に加わった飯野賢治という人は、「カリスマ」であり、「大スター」だったのだ。


当時の僕は、飯野さんが書いた本『ゲーム―Super 27years Life』を発売直後に買って読むくらい、飯野さんのことが気になっていた。
ファンだったのか?と問われると、「あんな暑苦しくて、オレがオレが!ってタイプの人、好きなわけなかった。むしろ苦手だった」はずなのだが、とにかくやたらと「気になる人」だったのだ。
その本を、まだ若手だった僕は、田舎の病院の薄暗い当直室で、一心不乱に読んでいた記憶がある。
まあ、当直室というのは、基本的に読書がはかどる場所ではあるのだが。


その本のなかには、中学校を卒業したあと、高校での生活に馴染めず、ゲーム会社で働くようになったこと。
ウルトラマン倶楽部2 』の制作に関わったとき「売れるゲーム」をつくるための工夫に目覚めたこと。
Dの食卓』は、ある「人間としての禁忌」に触れるために、発売直前まで、そのシーンを外すように指示され、外したバージョンを関係者に見せて許可を得ていたが、工場でプレスされる直前に「元の禁忌入りバージョン」に、こっそり差し替えてしまったこと。
セガに移籍したのは、セガのほうが「表現的にも自由にやらせてくれる」からだったこと。


そういう話が書かれていたのをいまでも覚えている。
いまから考えると、あれだけ大言壮語の人だったので、「これらのエピソードは、みんな事実だったのだろうか?」とも思うのだが、もう確かめる術もないし、そういう「虚飾」あるいは「胡散臭さ」も含めて、飯野賢治だったのではないかという気はしている。


セガに移籍後の飯野さんについては、セガファンだった僕にとっては「狼少年」だとしか言いようがない。
大きなことを言い続けるわりには、発売日が遅れ続け、発売されてみれば「こんなのできるかっ!」と投げつけたくなるくらい難しかった『エネミー・ゼロ』。
見えない敵を音で判断して倒す」という設定だったのだが、まあこれが難しいのなんのって。
あまりの難しさにほとんどの人が挫折し、のちに廉価版が出たときにはスーパーイージーモードがつくられたくらいなのだが、それでも地獄の難しさだった。
「あの『Dの食卓』の続編!」と鳴りモノ入りで登場したものの、発売されてからはほとんど話題にならなかった『Dの食卓2』。
飯野さんは「ローラ」を「ワープの主演女優」だと言っていたが、なんだか『スター・ウォーズ』のおかげでその後の役者人生が狂いまくったマーク・ハミルをみているようだ。


ただ、飯野さんがつくった「グラフィックのないアドベンチャーゲーム」の『リアルサウンド風のリグレット』は、今でも僕のなかでのベストゲームの1つだ。
飯野さんは、このゲームが、『ファミ通』のクロスレビューで低評価だったのを受けて、レビュワーたちに対して、「このゲームは、10点満点か評価不能のどっちかにしろ」と言ったという話が伝わっているのだが、僕にとっては、まちがいなく「10点」だった。
そういえば、あのクロスレビューに敢然と立ち向かったのは、飯野さんと高橋名人くらいだ。
リアルサウンド』で主人公を悩ませる2人の女の子は、菅野美穂篠原涼子で、当時はあまりよく知らなかった菅野さんの声の魅力に、僕はなんだかすごく取りつかれてしまったのだ。


参考リンク:『リアルサウンド〜風のリグレット〜』と「リアルライフ」のはじまり(琥珀色の戯言)


Dの食卓2』以降、飯野さんはゲーム制作をやめてしまった。
WARPは、いつのまにか、『スーパーワープ』になったが、飯野さんはゲームクリエイターというより、バラエティタレントみたいな感じで、ときどきテレビに出るようになった。
それを観ながら僕は「もうゲームクリエイターって、名乗るなよ……」などと毒づいていたものだった。
結局あなたは、大言壮語したことの10分の1も、やっていないじゃないか……と。


東日本大震災・福島の原発事故のあと、飯野さんの息子さんあてのメッセージが話題となり、書籍化された。
ああ、まだ元気なんだな、と少し嬉しくなったのと同時に、そんな「いいひと」になってしまった飯野賢治に、なんともいえない寂しさを感じたのも事実だ。
もっと、周囲が眉をひそめるような無謀なことをやるのが、飯野賢治じゃないのか?
予算オーバーしても、音楽にマイケル・ナイマンを起用しなければ納得しないのが飯野賢治だったのと同じように。
いや、同じ親として、あの飯野さんはカッコ良いと思ったけどさ。


飯野賢治は、僕よりも少しだけ年上だった。
小学生のときにテレビゲームに出会い、「ゲームをつくる人」になりたかったけれど、「そんな先の見えない職業」を真剣に目指す勇気がなくて、「なんか違うんだけど」と心のなかで愚痴をこぼしつつ堅実に生きてきた僕にとって、飯野賢治は「対極を生きてきた人」だったと思う。
そして、「あの頃の僕がやりたかったことを、(少なくとも2000年くらいまでは)やっていた人」だった。
ゲームクリエイターの立場でありながら、ソニーという巨大戦艦に立ち向かったこと。
無謀だと言われながら、マイケル・ナイマン坂元裕二矢野顕子を口説き落として、「人間、真剣にやろうと思えば、できないことなんてない」と豪語したこと(飯野さんは、たしかにゲームとゲームクリエイターの地位を向上させた)。
「禁忌」を描くために、スパイまがいの行為をしてまで、ゲームを「表現」だと主張しつづけたこと。
どんなに外部からは迷走しているように見えても、けっして弱音を吐くこともなく、大風呂敷を広げ続けたこと。


なんというか、飯野賢治は、もうちょっと年をとったら、少し人間が丸くなって、周囲とうまくやれる「大人」になってゲーム界に戻ってきて、「ああ、これを作るために、長い休暇をとっていたんだな」と僕を納得させてくれるような気がしていたのだ。


もう、それもかなわない。
飯野賢治の次回作は、永遠に「発売未定」になってしまった。


いや、正直なところ、僕はいまでも、葬儀が行われている会場で、突然「ポン!」と柩が爆発して、中から「スーパー飯野賢治」が笑いながら出てくるのではないか、と思えてならないのだ。
あの、プレイステーションエキスポのときと、同じように。

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