琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】テロルと映画 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、ハリウッドをはじめ世界各国で、テロリスムを主題とする映画が数多く製作されている。現在にいたるまでの半世紀、映画は凄惨な暴力をいかに描いてきたのか?本書は、テクノロジーの発展やテロリストの内面など、多様な観点からブニュエル若松孝二ファスビンダーらの作品を論じ、テロリスムと映画の関係性をとらえ直す。それは、芸術の社会的な意味を探る試みでもある。


 この新書を読んでいて、2001年のアメリカ同時多発テロが起こった日のことを思い出しました。
 あの日の朝、アルバイト先に遅刻しそうになりながら向かい、ようやくたどり着きました。
 やれやれ、と一息ついて、iモードのニュースで、「ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が衝突。テロか?」という文字をみつけたときには「で、何の映画の宣伝?」と思ったんですよね。
 あの映像をみて、「こんな映画みたいなことが、現実に起こってもいいのか?」と呆然としました。
 そして、一度、あのように「現実化」されてしまうと、もう、「高層ビルに飛行機が突っ込んでいく映画」をエンターテインメントとしてつくることは難しい。
 

 イスラム国人質事件でも、もし、世界中に映像やニュースを発信するシステムが存在しなければ、あんな事件は起こらなかったのではないか、と考えてしまうのです。
 「劇場型犯罪」という言葉がありますが、むしろ、現実のほうが「フィクション化」しているような気がします。
 

 テロリスムは常にメディアに訴えかける。これは表現を変えて説明するならば、テロリスムとは、いかなる場合にも不特定の他者の眼差しを前提として行使される暴力という意味である。表象されないテロリスムはありえない。当事者の側からすれば、事件がスペクタクルとして成立された時点をもって、テロリスムは成功したとみなされる。戦場における単なる破壊行為や個人的怨恨による殺人は、テロリスムと呼ばれるには不充分である。
 だが、きわめて限定された場所に集中的に与えられた暴力が、ひとたびメディアを通して全世界的な規模で観客を作り上げ、体制に脅威的な損害を与えたり、人々に強い否定的情動をもたらしたとき、それはテロリスムとよばれる(ネグリ、ハート、2008。酒井、2004)。
 こうしたスペクタクル志向のテロリスムは、1960年代後半にPFLPパレスチナ解放人民戦線)が開始した一連のハイジャックを契機に本格的に行われるようになった。それがより世界的な規模で報道されたのは、1972年9月にミュンヘン・オリンピックにおける「黒い九月」(ブラック・セプテンバー)事件である。パレスチナ解放を目的とする8人の人物が、イスラエルと西ドイツの監獄にいる200人余りの政治犯の同時釈放を求め、宿舎にいたイスラエル人選手たちを人質にとって立て籠もったのだ。


 1960年代よりずっと前から、「要人の暗殺」は起きていたのですが、「スペクタクル志向のテロリスム」の歴史は、50年くらいのものなのです。
 そしてそれは、テレビの普及により、映像で世界中の人が「リアルタイムで観ることができるようになった」時期と重なっています。
 現在は、ネットにより、メディアに頼らず、自前で世界中の「観客」に配信することが可能にもなっているのです。
 

 そして、この「黒い九月」事件が、「映画」の世界にも、フィードバックされていくのです。

 この事件が起きたとき、西欧世界はTVの生中継に釘づけとなった。「黒い九月」はわずか8人という少人数ではあったが、パレスチナ難民の解放闘争を世界的に訴えるにあたり、大きな成功を収めた。映画史的な観点から見るならば、少なくとも三つの重要な作品が製作される契機となった。


 四方田さんは、その「三つの重要な作品」として、ジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリ・ミエヴィルによる『ヒア&ゼアこことよそ』(1974)、ケヴィン・マクドナルドのドキュメンタリー『ミュンヘン・テロ事件の真実』(1999)、スティーヴン・スピルバーグの『ミュンヘン』(2005)を挙げています。
 僕は『ミュンヘン』しか見たことがないのですが、それぞれの監督らしいアプローチで、「黒い九月」事件が描かれているようです。
 

ミュンヘン・テロ事件の真実』のなかで、実行犯のひとりであり、唯一の生存者とされている、ジャマール・アル・ガッシー(とされる人物)がインタビューに応じています。

「われわれは殺人など目的にしていなかった。オリンピックには申し訳なかったが、ショーケースとして使わせてもらった。何百万、いや何十億の人々にわれわれを見てほしいために行ったことだった」と、彼は述懐する。
 このジャマールの発言は、今日のテロリスムの本質をみごとに言い当てている。テロリスムは偶然それに立ち会ってしまった人々に強い恐怖を与え、彼らに阿鼻叫喚の惨状を示すだけではまだ完成していない。映像メディアを通して世界的規模で不特定多数の観客を獲得し、彼らの視覚的欲望を喚起させつつメッセージを伝達しえたとき、はじめてテロリスムとして成立するのだ。
 だが、このドキュメンタリーは同時に、テロリストの内面に宿る二律背反的な感情をも証立てている。ジャマールはモサドによる復讐から身を隠しておきたいと願う一方で、事件についての唯一の真理保有者として自分を公衆の前に晒し、歴史の文脈のなかで記憶されたいという欲望にも駆られている。テロリスムの背後には程度の差こそあれ、かならずこうした自己顕示欲が見え隠れしている。


 この新書を読みながら、僕はずっと考えていました。
 こうやって、テロを語ること、テロを報道することや映画化することは「知る権利」を満たすことであり、「テロは悪いことだ」と、人々に訴えるという目的がある。
 でも、そうやって、「テロのニュースや映像が拡散される」ことこそが、「次のテロの芽を生み出す」ことにつながってしまうのではないだろうか?
 テロを起こしても、誰も報道しない、あるいは、テロリストの動画は視聴できないようにする(これは、いまの時代では、なかなか難しいのかもしれませんが)。
 テロの報道や映像をみた大部分の人は「テロは怖い」「テロに屈しない」などの、テロリスムへのネガティブな感情を抱くのではないでしょうか。
 でも、100人にひとりでも、「テロリストたちが言っていることにも、一理ある」と感じるのであれば、それは、テロリストたちにとっては「有意義」なはず。
 そもそも、「平和的なアピール」なんて、世界の大手メディアは、一瞥もしてくれないのだから。


 なんのかんの言っても、人間は、こういう「スペクタクル志向のテロリスム」が好きなんですよね。
 それは、日本人にも共通しています。

 とりわけ前近代に実在した二つの巨大なテロリスト集団の物語が、その後、大衆演劇や大衆小説を通して、国民的とも呼べる規模にまで人気を博してきた。この事実が映画産業にもたらした意味は大きい。
 一つは18世紀初頭に起きた大名どうしの刃傷沙汰が、演劇的衣装をともなって大規模な復讐劇へと発展したもので、「忠臣蔵」と呼ばれている。もう一つは幕末に開明派の活動家たちを暗殺していった白色テロ集団の顛末記で、これは「新撰組」ものと呼ばれている。日本人の観客は彼らの体現する世俗化された儒教イデオロギーにまったく無自覚なまま、そのテロ行為を美化礼賛する映画を支持し続け、映画産業はそれを大がかりなジャンルに仕立てあげてきた。


 まあ、リアルタイムでみていた人たちは、価値観が現在とは違うので、感動したり、称賛したりするのも当然として、いまの価値観からすれば、たしかに「テロ」なんですよね、「忠臣蔵」も「新撰組」も。
 イスラム過激派のテロも、彼らの側からみれば「忠臣蔵」や「新撰組」なのかもしれません。


 著者は、パレスチナ人のハニ・アブ・アサド監督の『パラダイス・ナウ』(2005)という、二人のパレスチナ青年、ハーレドとサイードを主人公とした映画の、こんな場面を紹介しています。

 ハーレドとサイードは町外れにある廃工場に連れていかれ、そこで殉教者としての遺言ヴィデオに映像を遺すことになる。科白はあらかじめ定められている。

 イスラエルの不当な占拠に終止符を打つため、自分は死を決意いたしました。父上様、母上様、先立つ不孝をお許しください。


 決行者はこの文面をただ棒読みするだけでいい。ハーレドはヴィデオカメラの前でそれを真剣な表情で朗読するが、機材の故障でやり直しとなる。二度目には組織の幹部たちが不謹慎にも手にしていたパンを齧ってしまい、厳粛な雰囲気が崩れてしまう。
 呆れかえったハーレドは予定された宣誓をやめ、母親への個人的なメッセージをカメラの前で語る。

 お母さん、水道のフィルターは安いのが出てますから、買っといてくださいよ。


 この場面は自爆攻撃を企画する組織が純真な青年たちを利用して大義名分を果たすさいに、いかにその作業がルーティン化しているかを如実に示している。このフィルムは「自爆攻撃」を肯定しているという批判が公開時にアメリカで起こったが、細部を確かめてみると、随所に組織の頽廃したあり方を批判する視点が見受けられる。


 少なくとも、この場面の描写では「自爆攻撃を肯定している」ようには思えないのですが……
 こういう「現実」を伝えることができるのも、映画とかメディアの力ではあるのです。
 でも、同じものを見ても、「テロというドラマに憧れる人」も、きっといるのだろうな。


 採りあげられているなかで、僕が観たことがある映画は『ミュンヘン』くらいだったのですが、読んでいて、「現実のような映画」と「映画のような現実」の終わらない追いかけっこをみている気分になりました。
 「テロを描く」ことの是非、について考えるべきなのかもしれないけれど、きっと、人々の「知りたい欲望」みたいなものは、そう簡単に抑えられるものではないのでしょうね。

アクセスカウンター