- 作者: 佐々木敦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/09/23
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
現代日本文学が生んだ最重要にして最強の作家・筒井康隆。日本SF第一世代に属したのち、中間小説に進出してその最盛期を支え、さらには燦然と輝くジュブナイルの金字塔をうちたて、小説のジャンルとスタイルのあくなき改革者―そんな怪物的巨人の作品世界をトータルに把握することは困難を極めます。本書はその難題に、筒井本人をして「わし以上にわしのことを知っている」と言わしめた佐々木敦が、デビュー作「お助け」から最新作まで、綺羅星の如き作品群を愚直にレビューすることで回答を試みます。キーワードは「筒井康隆は二人いる」。さあ、半世紀以上に及ぶ巨人のキャリアを辿り直し、新たな筒井康隆像を探す旅に出ましょう。
僕は高校時代に筒井康隆という作家に出会って衝撃を受け、30年来「ツツイスト」を続けています。
読み始めたきっかけは、高校の文化祭で買った『48億の妄想』だったのですが、この本、知り合いが出店していた古本屋で、義理もあって何か買わなきゃ、という状況のなか、偶然手にとった本だったんですよね。
買ってしまったからな、と半ば義務的に読み始めたら、筒井さんの世界に魅了されてしまって。
この『48億の妄想』は、筒井さんの初めての書き下ろし長編でした。
1965年に上梓されたこの作品を、著者の佐々木敦さんはこんなふうに紹介しています。
そして『東海道戦争』の二ヶ月後、筒井康隆の初めての書き下ろし長編『48億の妄想』が刊行されました。これは「東海道戦争」で先鞭をつけた「疑似イベント」を全面的に展開した作品です。ここで描かれるのは、テレビが何よりも絶大な力を持った世界です。この長編の発表前年の1964年に東京オリンピックが開催され、テレビを所有する家庭が飛躍的に増えたことが物語の背景にあります。この小説では、ひとびとは皆、テレビに映ることを過剰に意識して生きています。ありとあらゆる人間の営み、政治の世界や人の生死も完全にショー化され、いわばウケるかウケないかだけで全てが決定されてしまう。筒井康隆は多数の登場人物とエピソードを巧みに操りながら、事態を軽薄なまま刻々と深刻化させてゆき、そして第二部に入って、おもむろに「疑似イベント」を仕掛けます。それはやはり「戦争」という「疑似イベント」です。
『48億の妄想』は、50年以上前に書かれたことを思うと、確かに細部はさすがに古くなっていますが、全体としての世界観は、驚くほどに現在の社会を予見しています。とりわけインターネット以後、SNS以後の、FacebookやInstagramに自撮りやリア充自慢を嬉々としてアップして互いに「いいね!」を付け合う人々のメンタリティや、ネットデマやフェイクニュース問題なども、この長編は先取りしています。しかしこう考えてみると、メディアやテクノロジーはアップデートされても、人間の愚かさというものは基本的に変わらないのかもしれません。当時、筒井康隆はまだ30歳を超えたばかり、この時点で彼は日本社会に対して、透徹した視線を持っていました。
僕は『48億の妄想』で、やや露悪的なまでに描かれた「メディア社会」に、「こんな時代を先取りした人がいるのか!」と驚き、読み終えたあと、これが1965年、僕が生まれるずっと前に書かれていた、ということに愕然としたのです。
僕は『48億の妄想』を、1980年代半ばに読んだのですが、その時点でも同じような問題は存在していたし、僕には、とても新しい問題提起のように感じられたのです。
そして、なんといっても、面白かったんですよね、筒井作品は。
筒井作品は、それまでなるべく自分を無菌室に入れておこうとして、大人になることを拒絶していた僕に、風穴をあけてくれたような気がします。
風穴どころか、かなりのショック療法ではありましたが。
エロ・グロ・ナンセンス、これまで「触れてはいけない世界」だと思い込んでいたものは、こんなに身近なところにあった。
この『筒井康隆入門』という本は、ど真ん中のストレートなんですよ。
長いキャリアを持っていて、いまだに著作の文庫が50年前のものから現在のものまで、新刊書店にずらっと並んでいる数少ない「現役の人気作家」であり、僕のような「信者」や影響を受けた人がたくさんいる筒井康隆という人を語るために、佐々木さんは、「デビュー以降の作品を時系列に紹介していく」という方法をとっています。
稀代のタレントであり、(文壇的な)スキャンダルを生み出してきた筒井康隆という人間論や作品の総括を行うのではなく、ひとつひとつの作品を、あらためて語り直しているのです。
ファンとしては「この作品のことを、もうちょっと詳しく語ってほしかった」というものも少なからずあるのですが、やや駆け足で語ってさえ、新書で250ページをこえるのですから、筒井康隆という作家は、本当にすごい。
こうして作品を追っていくと、筒井作品を読むことは、僕にとって、「新しい文学の世界」を知ることでもありました。
キャリアの長い人気作家は、大概、同じようなシリーズ作品を手掛けて、マンネリを武器にしているようなところがあるのですが、筒井さんの作品は、つねに「いまの世界文学の潮流」を意識しており、筒井さんが『旅のラゴス』を書かなかったら、僕はラテンアメリカ文学に興味を持つことはなかっただろうし、話が進むにつれて、使う文字を減らしていくという『残像に口紅を』に驚かされなかったら、リポグラム(文字落とし)という手法を知ることもなく死んでいたはずです。
しかしこの『残像に口紅を』って、いまあらためて読み返してみても、「なんてことをやってしまうんだ筒井さんは!」と思わずにはいられません。
『残像に口紅を』(1989年)は、文庫化の際に、計量国語学会の紀要に発表された、泉麻子(JR東日本情報システム)を水谷静夫(計量計画研究所)という二人の共同研究による調査報告「筒井康隆『残像に口紅を』の音分布」が掲載されています。この論文は非常に面白く、まず作者がうっかり消えた言葉を使ってしまっている箇所が指摘されており(五箇所だけですが)、それがそのまま文庫に解説として載っているのが筒井康隆の度量の大きさを表していると言えます。また論文の後半では筒井康隆がこの作品を書くにあたって行った下準備のことが触れられています。これは1988年に出された柳瀬尚紀との対談本『突然変異幻語対談〔汎フィクション講義〕』で語られるエピソードですが、使用頻度の高い音を早い段階で消してしまわないように、筒井康隆はあらかじめ『虚航船団』と『夢の木坂分岐点』の冒頭部分の音の頻度表を作成し、自分の作品に潜在する音分布の特徴を把握した上で、消す音の順番を決めていったそうです。コンピューターなどを用いず、おそらく人力で数えているので多少間違っていたりもするのですが、しかし斬新なアイデア、困難なアイデアを実現するために、かくも面倒で緻密な作業を陰でやっているのだと感心させられます。
『残像に口紅を』を読み終えた時、読者をなんともいえない虚無感が襲います。筆者は『虚人たち』と『虚航船団』の「虚」は「虚構」の「虚」だけでなく「虚無」の「虚」でもあるのだと思います。これに限らず、筒井康隆の小説、特に長編には、最後には何もかもが消え去り失われてしまうのだという底知れない虚無感が横たわっているようにも思えます。それは或る種の儚さを湛えてもいます。ここに筒井康隆の人生観が顔を出していると言ったら深読みが過ぎるでしょうか?
これを読んでいて、僕が大好きな『霊長類 南へ』も、そういう終わり方だったな、と思い出しました。
しかしながら、その一方で、筒井さんは、単なる虚無主義者ではなくて、「虚無に向かっていく人間という存在」に、ひとかたならぬ興味を抱いているように感じるのです。
筒井さんは、近年は「老い」をモチーフにした作品を数多く書いておられるのですが、それは「自らの老い」への自覚とともに、それを悲しむというより、冷静に観察・記録せずにはいられない、という「自分自身をも観察・実験の対象にしてしまう研究者としての業」も持っている。
僕はずっと、「自分以外の誰かになれるとしたら、筒井康隆になってみたい」と思っているのですが(というか、他に「なってみたい人」は思いつかない)、筒井さんというのは、ずっと「筒井康隆を演じている何か」なのではないか、という気がするんですよね。
佐々木さんは、2015年に発表された『メタパラの7.5人』という短編から、以下の文章を引用しています。
そうそう。メタフィクションという言葉も出てきていたね。作者がなぜこの概念に捉えられるようになったかについても簡単に説明しておこう。そもそも作者の中には、現実に生きている人たちが日常的に演技をしているように思えてならない気持があった。子供の頃からだ。日常に頻出する喜怒哀楽の場面において、人がみな定型化した喜怒哀楽を表現しているように見えてならなかった。どんな大きな局面でも、今までにない奇妙な局面でも、人はみな誰かから教わったというわけでもないそれらしい演技を演じることが本能的に可能なのではないかと思えてならなかったんだ。大事件の場合でさえいざとなれば茫然自失という演技に逃げ込むことは可能なんだからね。つまり日常というものはそのままフィクションなのではないかという疑問があり、わたしの小説の出発点はそこにあったと言えるだろう。
「離人症」なんていう言葉もあるのですが、そんな簡単には片付けられない「現実とフィクションの境界」みたいなものを僕もずっとたゆたってきている気がします。
それはたぶん、筒井作品に出会う前からだったと思う。
こうして、筒井さんの小説が進化しながら支持され続けているということは、ある意味、そういう「日常というのはそのままフィクションなのではないかという疑問」にとらわれている人は、世界に少なからずいる、ということなのでしょう。
これもまた、筒井康隆にとっては、思考の終着駅ではなくて、今もまだ、旅は続いているのですけど。
ツツイストはもちろん、書店の文庫コーナーの「筒井康隆」を眺めて、「どれから読めばいいんだよ……」と諦めてしまった人にも、ぜひ読んでみていただきたい、現時点では唯一無二の「入門書」です。
佐々木敦さんは、よくこんな「怖い」仕事をやり遂げてくれたものだなあ、と感謝の念に堪えません。
この感想のコラボ企画。僕の思い出の筒井作品を紹介しています。
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