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【読書感想】短篇小説講義 増補版 ☆☆☆☆

短篇小説講義 増補版 (岩波新書)

短篇小説講義 増補版 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「短篇小説を書こうとする者は、自分の中に浸みこんでいる古臭い、常識的な作法をむしろ意識的に捨てなければならない」。その言葉どおりに数かずの話題作を生み出してきた作家が、ディケンズら先駆者の名作を読み解き、黎明期の短篇に宿る形式と技法の極意を探る。自身の小説で試みた実験的手法も新たに解説する増補版。


 この筒井さんの短編小説講義、長年の筒井ファンである僕は、どこかで読んだことがあるはずなのだが……と思いながら手に取りました。
 1990年、『文学部唯野教授』がベストセラーになった時期に上梓されたものだったんですね。
 当時読んだはずだったのですが、ほぼ30年ぶりとなれば、内容をほとんど覚えていなくてもやむなし、というところです。
 
 日本では数少ない「短篇集でも売れる作家」である筒井さんの小説論が、30年越しに読め、増補版として出たことに感謝せずにはいられません。

 どんな作品が採りあげられているかというと、こんな感じです。

目次
1 短篇小説の現況
2 ディケンズ「ジョージ・シルヴァーマンの釈明」
3 ホフマン「隅の窓」
4 アンブロウズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
5 マーク・トウェイン「頭突き羊の物語」
6 ゴーリキー「二十六人の男と一人の少女」
7 トオマス・マン「幻滅」
8 サマセット・モームの短篇小説観
9 新たな短篇小説に向けて
10 ローソン「爆弾犬」
11 筒井康隆「繁栄の昭和」


 有名な作家ばかりなのですが、僕はこれらの作品を一篇も読んだことがありませんでした。
 そういえば、30年前も、この新書を読んで、これらの作品を読んでみなければ!と固く決意したはずなのに、30年間、それを実行していなかったのです。
 筒井さんは、岩波書店が文庫創刊60周年を記念して各作家の短編小説集60点をセット販売した際に、そのすべてを読み返し、初読の作品のなかで、「現在(30年前)のいわゆる短編小説作法の枠からは大きくはずれたものがたくさんあった」のを発見します。
 そして、それらの作品が、短編小説というジャンルができて間もなく書かれたものであるがゆえに、「良い短編小説とされる形式」にとらわれない、新鮮なものに感じられた、と仰っています。

 ではこうした短篇の作者たちに、それぞれの手法でこれらの作品を書かせた内在律とはいったい何だったのか。また短編小説というジャンルが確立されたのちにおいても、それぞれの時代に、それぞれの手法で書いた作家は、短編小説にどのような創作態度でのぞんでいたのか。次章以降ではそれを考えるために、そうした中のいくつかの短篇をとりあげてご紹介するとともに、その後ほとんど誰も真似ることがなかったため、現代の短編小説がとり逃がしているかに思えるさまざまな手法を探索していくことにしよう。

 
 アンブロウズ・ピアスの『アウル・クリーク橋の一事件』の項より。

 アンブロウズ・ピアスは、作家としては二流であった。ただのロマン主義者であり、新しい文学の潮流を理解できず、ヘンリー・ジェイムズを認めず、ディケンズのリアリズムも否定した。だが、たとえそうであっても、「死」にとり憑かれ、この時代にはすでに古い陳腐な技法とされていた「意外な結末」に固執し続けたからこそ、「アウル・クリーク橋の一事件」という傑作が生まれたのではないだろうか。逆に言えば、短編小説の傑作というのは本来、アンブロウズ・ピアスほどの才能のある人物でさえ、ただひとつのテーマ、ただひとつの技法に頑固に執着して全作品を書いたとしても、まるで偶然のようにやっと一篇が生まれるというほど稀にしか出現しないものなのではないのか。傑作を書こうとして書けるといったなまやさしさと短編小説とは、そもそもが無縁なのではなかろうか。


 この本を読んでいくと、筒井さんがここで書いておられることがわかるような気がします。
 名だたる大作家たちでも、「売れる」短篇を量産することはできても、「傑作」「歴史を変えるような」短篇というのは、そんなに書けてはいないのです。
 そもそも、どんな傑作でも、ひとつの短篇ではたいした稼ぎにもならない。
 そして、筒井さんのような「読み巧者」を揺さぶるほどの作品であっても、世間的には長篇の「名作」に比べると、はるかに認知度は低い。
 というか、僕がこれらの作品をフラットな状態で読んだとしても、「すごい!」と感じることができる自信はありません。


「新たな短篇小説に向けて」という項で、筒井さんは、こう述べています。

 これから短編小説を書こうというくらいの人なら、「一生に一度」ということを頭に置いておいた方がいい。それくらい稀にしか傑作は生まれないものだし、文学史的にはそれが当たり前なのだ。既製の短編小説作法を会得したあとは毎月の締切に応じたルーティン・ワークとして流れ作業のように短篇を書いていけるというものではなく、それをやっている限りは一生に一作の傑作も生まれないだろう。
 そのような短編小説の傑作が生まれる過程は、この本でとりあげた作家たちが示してくれている。彼らは自己の短篇小説作法としての内在律から抜け出そうとした。あるいは偶然に抜け出た。またある作家は逆に、自己に独特の過大な拘束を課した。短編小説作法というものなどはない、というぼくの主張ではあるが、この作家たちのこうした姿勢やその結果にだけは学んだほうがいい。いや、学ぶべきはまさにそこなのだ。短編小説を書こうとするとき、短編小説を書こうとする者は、自分の中に浸みこんでいる古臭い、常識的な作法をむしろ意識的に捨てなければならない。自動的に頼ってしまう形式や技法を常に意識しているくらいでなければ、そこから抜け出すこともまた不可能である。なにしろそれは今や自動化された言語の如く、新たな言語芸術を作らせまいとしてわれわれの中に巣食っている毒なのだから。


 この新書を読むと、ディケンズマーク・トウェインの時代から、作家たちは試行錯誤を続けていたことがわかります。
 こんなやり方があったのか、と感動してしまうのだけれど、誰かが一度やってしまえば、同じことをやっても「二番煎じ」でしかありません。
 「新しい短編小説を書く」というのは、底なし沼にハマってしまうようなものだな、と考えずにはいられなくなるのです。
 その一方で、「一生に一作」という観点からは、コンスタントに作品を書いて食べていかなくてはならない職業作家よりも、ネットで趣味的に小説を書いているような人の集団のほうが、そういう「蜂の一刺し」を実現しやすいようにも感じます。
 筒井さんのような巨人を前にすると、そんな簡単なものじゃないんだよな、と思い知らされるのですが。


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