琥珀色の戯言

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【読書感想】女系図でみる驚きの日本史 ☆☆☆

女系図でみる驚きの日本史 (新潮新書)

女系図でみる驚きの日本史 (新潮新書)


Kindle版もあります。

女系図でみる驚きの日本史(新潮新書)

女系図でみる驚きの日本史(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した「女系図」でたどると、日本史の見え方が一変する。滅亡したはずの平家は、実は今上天皇にまで平清盛の血筋を繋げる一方、源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えているのだ。「史上初にして唯一の女性皇太子はなぜ誕生したのか」「徳川将軍家にはなぜ女系図が作れないのか」等々、著者作成の豊富な系図をもとに、次々と歴史の謎を解き明かしていく。


 世の中には、いろんなものに興味を持つ人がいるのだな、と、著者の「系図づくりへの熱意」に、まず驚かされました。
 僕も歴史好きのつもりなのですが、教科書や本に載っていた系図に関しては、とりあえず見ておかないと損したような気がするので、一瞥だけして、本文に戻る、という付き合い方しかしていなかったんですよね。
 

 でも、著者はRPG(ロールプレイングゲーム)で、完璧なマッピングをしないと気が済まないゲーマーのように、系図、とくに「女系」の系図づくりを続けてきたのです。

 女系をたどった平家の末裔を追った本としては、つとに角田文衛の『平家後抄』があり、私も影響を受けた。が、私がそもそも「女系図」に目覚めたのは、平家絡みではなく、平安時代藤原道長の栄華を描いた歴史物語の『栄花物語』を読んでいた中高時代のことであった。
 紫式部と同時代の赤染衛門が書いたといわれるこの本は、「誰と誰が結婚し、誰が生まれて、誰が死んだ」という貴族社会の動向やスキャンダルから成り立っていて、内容を頭に入れようとすると、おのずと系図を書かずにはいられないという具合だった。『大鏡』『愚管抄』『古事記』『日本書紀』などの歴史物はいずれも同様で、古典好きな私が大学で日本文学ではなく日本史学を専攻したのも、古典文学の物語としての面白さより、古典文学から当時の人の暮らしぶりや考え方を知る面白さのほうが私の中ではまさっていたからだ。それで、古典文学を読むために系図をつくるというより、系図を作るために古典文学を読むようなことになっていた。
 趣味が高じるあまり、大河ドラマを見てもギリシア神話を読んでも、飼い犬の血統書を見ても系図を作らずにはいられなくなり、1991年に出した『愛はひき目かぎ鼻』(NTT出版)では、その名もずばり「女系図」という一章を立て、滅亡したと言われる蘇我氏が実はまったく滅亡しておらず、藤原氏の系図は蘇我氏や源氏のそれにも書き換えられるということを、系図入りで説明した。そこに書いたことをここで繰り返せば、
「男側の系図で見るから、滅びたり滅ぼされたりする一族がいるのである。一転、視線を女の側に向けると、栄えているのは滅びたはずの一族だったりする」
 とりわけ一夫多妻&生まれた子供は母方で育つ母系的な古代社会では、同じきょうだいでも「母」の地位や資産によって出世のスピードや命運が決まるのはもちろん、天皇家の歴史もいかに母系の地位を獲得するかの権力闘争史として見ることができる。


 正直、著者ほどの「系図愛」がない僕にとっては、ついていけないところも多いというか、この入り乱れた系図を見るだけでも、頭がクラクラしてくる……という感じではあるのですが、この本を読むと、名前さえ不明なことが多い歴史のなかの女性たちが、実際には、その夫や子供たちの繁栄の大きなカギを握っていたことがよくわかるのです。
 先に生まれていても、母親の身分が低いと後継者レースから外されたり、妻の実家の力で出世していったりする、というのは、近年まで、「上流社会」でみられていた現象ではあるんですよね。
 受け継がれる遺伝子は、父親からも母親からも半分ずつ、ということですから、父系が滅びても、女系でつながっていれば、「滅亡したといわれている一族の子孫が、実際は繁栄している」ことは珍しくありません。

 物部氏の歴史書『仙台旧事本紀』によれば、守屋の子の雄君(をきみ)は二人の子をもうけているし、守屋の弟の御狩(みかり)の玄孫の公麿呂(きみまろ)は”石上朝臣”の姓を賜って、その後も命脈を保っている。
 蘇我氏はさらにはっきり栄華を極めた。
 藤原不比等の妻となり、武智麻呂、房前、宇合を生んだ蘇我娼子は、滅びた入鹿のいとこの子だ。その血は摂関家はもちろん、鎌倉将軍家にも天皇家にも、『源氏物語』の紫式部にさえつながっている。
 大伴家持の時代には落ちぶれたといわれる古代の名族大伴氏も、中臣鎌足の母方であることによって、藤原氏に血を注ぎ込んだ。
 唐に滅ぼされた百済王家も、桓武天皇の母方となることで、葛城氏や蘇我氏や大伴氏、藤原氏とも混ざり合い、今も生き続けているのだ。


 日本の名族というのは、かなり狭い範囲での婚姻を繰り返しており、どこかで繋がっていることが多いのです。
 「平家滅亡」といっても、実際に滅亡したのは、平清盛の直系男子であって、平氏の子孫はその後の歴史にも登場しつづけています。
 女系も含めて考えれば、源氏よりも血は繁栄している、といえるくらいに。
 また、その「かなり血が濃い男女たちの、入り乱れた関係」についても言及されていて、それは「その時代としては当たり前」だったのかもしれませんが、今の感覚でいうと、けっこう面食らってしまうものがあるんですよね。
源氏物語』を読むと、斉藤由貴さんも1000年前に生まれていれば、こんなにバッシングされなかったのに、とか、つい考えてしまうのです。


 著者は各時代の権力者の「正妻から生まれている率」を検証し、表にしています。
 そして、時代が下る(現代に近づく)につれ、「正妻から生まれた子である確率」が低くなっていることを示しているのです。
 平安時代の「最高権力者が正妻から生まれた割合」は77%に対して、江戸時代は15名の将軍のうち、正妻から生まれたのは、わずか3人だけ。
 著者はこのデータから、まず、「母方の重要性の低下」を指摘しています。
 江戸時代は、父親が将軍なら、母親の身分はあまり問われないようになったのです。もちろんそれは、「正妻が男子を生むとはかぎらない」という事情もあるわけですが。
 男性側の理由で、子供ができないことだってあるわけで、側室が常識であった時代でも、家をつないでいく、というのは、簡単なことではありませんでした。

 徳川将軍家の妻妾を見て驚くのは、正妻(御台所)と側室の極端な身分差だ。
 御台所は、三代家光将軍以降は、皇族や最高位の公卿から迎えられた。十五代中二代ほど外様大名の島津家出身の御台所がいるが、いずれも近衛家の養女になってから輿入れしている。
 幕府がこうした方針をとった理由は、「天下を統一し、征夷大将軍となった以上、例え大々名であろうとすべて臣下であり、最早武家の社会には対等に交際できる家柄は一つもなくなった」というのと、「徳川幕府にとって朝廷、公卿はやはり面倒な存在であったから、常にこれを懐柔して置く必要があった」(高柳金芳『江戸城大奥の生活』)と説明される。
 初代将軍家康は朝廷を非常に意識しており、1620年、二代秀忠の五女和子が天皇家に入内したのは亡き家康の方針によるものだった(村井康彦編『洛 朝廷と幕府』)。
 が、ふつうに考えれば、側室の一人くらい大名家から迎えてもいいだろうに、幕府はそうしない。側室は基本的に旗本の娘で、先にも触れたように武家以外の者もいた。これは側室が、大奥に使える女中から選ばれるためで、御台所が「将軍家と対等」という位置づけなのに対し、側室は「将軍家の臣下」という位置づけだ。平安貴族でいえば、女房として仕えつつ主人の性の相手もするいわゆる「召人(めしうど)」に近いかもしれない。
 つまりは召使である。


 正室は朝廷、側室は旗本の娘で、その中間の大名家からの輿入れは、避けるようにしていたのです。
 これは、妻の実家の勢力(外戚)が将軍家を脅かすことを予防するのに有効だったと思われます。
 しかしながら、長年安泰であった江戸幕府が外圧で危機にさらされたとき、頼るべき縁戚が、ほとんど存在しなかった(中には、倒幕に協力した人もいます)のは、この方針の影響があったのでしょう。
 中国史でも、皇帝の縁者の専横を嫌った秦の始皇帝が皇帝への権力の集中をすすめたところ、秦が危機に陥ったときに頼れる縁者がおらず、秦の滅亡につながりました。
 のちの西晋では、その事例を鑑みて、皇帝の縁者を諸国の王として封じましたが、のちに、その王たちが独立しようとし、西晋の衰退をもたらしています。
 結局、どのやり方にもメリット・デメリットがあり、うまくいかないときは、どうやってもダメ、なのかもしれませんね。


 家系図好き、歴史好きには、すごく魅力的な新書だと思います。
 「血縁」に対する考え方にも、けっこう歴史的な変遷があるのだな、ということもわかりますし。

 

婦系図 (新潮文庫)

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藤原氏―権力中枢の一族 (中公新書)

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