琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】動乱期を生きる ☆☆☆


Kindle版もあります。

知の巨人と気鋭の戦史・紛争史研究家がとことん語り合う
資本主義、安全保障、SNS選挙、トランプ大統領、中東問題…… 


「株式会社思考」が蔓延する社会

すでに権力を持っていることを理由に、強者が権力者然としてふるまう政体。それを「パワークラシー」という。
そして、このパワークラシーにどっぷり浸透してしまっているのが日本の社会である。
現代の日本では、強者を求める国民心理、短期的利益を求める「株式会社思考」が蔓延している。
さらに、マスメディアによるジャーナリズムの放棄、現状追認を促すインフルエンサーの台頭と相俟まって、傲慢で短絡的な政治家・インフルエンサーの言動が人気を集める不可解な現象が起きているのだ。
一方、世界を見渡しても、近代以前への回帰志向を持つ指導者が支持を集め、恐怖と混乱をもたらしている。
この動乱の時代において、私たちに残された道はあるのか? 
本書では異なる専門を持つ二人が、300ページを超える圧倒的なボリュームで、日本が抱える問題とディストピアを余すことなく語る。
暗い未来の中に見える一筋の光とはーー。


僕は内田樹先生をインターネットで知って、著書も長年読んできました。
 
いま(とは言っても、たぶんこれを読んだのは15年くらい前)の日本では「自分の能力や働きに比べて、給料が安い」と不満を持っている人の割合が高いそうです。

そのことに対して、内田先生は、こんなふうに仰っています。

「もし、労働者の待遇が完全に『能力や実績に正比例』していたら、大部分の人は、自分の能力の現実に打ちのめされることになるだろう」

「能力」は必ずしも待遇に反映されていない、という思い込み(そして社会的な同意)があるからこそ、多くの労働者は「俺はこんなに働いているのに、なんで給料が安いんだ!」と愚痴を言うことができます。
その人が、本当に言うだけ働いているのかどうかはさておき。

なるほどなあ、と、当時の僕は目から鱗が落ちたような気がしました。
「正比例じゃない」からこそ、嘆く余地があって、救われている面もあるのだな、って。


fujipon.hatenadiary.com


近年の内田先生の言動をみていると、「さすが!」と感心することもあるのだけれど、「こんなすごい人でも、加齢、あるいは党派性には逆らえずに、権力者の悪口と自分の味方への妄信に走ってしまうのか」と愕然とする機会が多いのです。

この本は、内田樹先生と歴史・紛争史の専門家・山崎雅弘さんとの対談を収録したものなのですが、二人で、「50年以上生きていて、今ほど、『国政の中枢で善悪の基準が揺れている』『倫理のタガが外れている』『社会の底が抜けている』と感じたことはない」なんて言い合っているのを読むと、ああ、人はみんな「昔はよかった」しか言わない、いわゆる「老害」みたいになっていくのかなあ、と思うのです。
僕自身も、例外ではないのでしょう。

やっぱり内田先生!と拍手したくなるところと、何なんだこれは?と唖然とするところが混在している本なんですよ。

内田樹最近、僕のゼミの卒業生からこんな話を聞きました。彼女の小学4年生のお子さんが、学校でクラスメートと議論になった時に、「それって、あなた個人の感想でしょ」と言い負かされてしまった。あまりの悔しさにその子は毎日YouTubeを一生懸命に漁って、「どうしたら言い返せるか」を研究していたんだそうです。でも、適当なものが見つからない。そこで卒業生がうちに来た時に「内田先生、何かいい『返し』があったら教えてください」と頼まれました。小学生の間にもすでにそういった口ぶりが蔓延しているということにびっくりしました。


山崎雅弘:いわゆる「ひろゆき論法」ですね。


内田:「それは個人の感想ですよね?」と返すことで、言明の適否についての判断を放棄して相手を切り捨てる手法ですが、これは単なる思考停止に過ぎません。どんな科学的仮説でも、ある意味では「個人の感想」だからです。宇宙についての絶対的な科学的真理を知っている「ラプラスの魔」のような人間などこの世にはいません。だったら、あらゆる科学的言明はどれも完全な真理ではないから、同じ類の妄想なのかといったらそんなことはない。科学的真理である蓋然性が高い命題とまったくの主観的妄想の間には「程度の差」というものがあります。個人の感想でも、その人ひとりの脳裏にしか居場所のない主観的妄想と、何百万人かのサンプルについて妥当する言明では自ずと「程度の差」というものがあります。科学というのは、この「程度の差」を精密に査定する知性の働きのことです。宇宙の始まりがどうなっていて、宇宙の終わりはどうなっているのかについて、誰も確実なことは言えない。だからと言って、宇宙に関する言明はブラックホール仮説も、宇宙は巨大な亀と象と蛇の上に乗っているという仮説も、どちらも「個人の感想」であり、科学的価値において等価であるというような乱暴なことを言う人はいません。


なるほどなあ、「個人の感想にも『程度の差』があって、それこそが重要なのだ」ということなのか。
まあ、「ひろゆき論法」を駆使する人に、この内田先生の話を理解してもらうのは難しい気はしますけど。
ひろゆきさんって、たぶん、わかってやっている人だから、それはそれで困ったものだよなあ。

こういう「内田先生らしさ」が発揮されているところもたくさんみられるのです。


こんな言葉もありました。

内田:インターネットが危険なのは、あるステートメントが表に出て流布するまでの間にスクリーニング(選別)が介在しないからだと思います。たとえば、この本でも、企画を立てた編集者がいて、企画書が企画会議を通って、著者である僕たちがそれぞれ原稿をチェックして、さらに校閲のチェックを受けて、最後にまた営業会議で「どれくらい売れそうか」という議論があって、価格と部数が決まって、それによってどの程度の範囲に僕たちの言説が広まるかが決定づけられる。いくつものスクリーニングを経て、ようやく世にでる。コンテンツの質が低ければ、そもそも商品として流布しない。
 でも、SNSにはフィルターが存在しない。スマホ1台あれば全世界に向けて発信できる。


(後略)


コンテンツに対して「スクリーニング」がうまく機能していないのがネットの問題点ではないのか?
それは僕にも理解はできるけれど、それと同時に、ネットで長年発信してきた人間として、「でも、結果的には『つまらないもの』や「取るに足らないもの』は読まれずに淘汰されている」とも感じています。「面白いけど有害なもの」が問題なのでしょうけど、何が本当に「有害」なのかというのは、難しいですよね。

内田:当時、菅義偉官房長官が安倍政権の数々の疑惑に対して、「まったく問題ない」「そのような指摘はあたらない」とまともに回答しない態度を評してメディアは「鉄壁」と呼んでいましたけれど、政権が独裁的であるさまを評して「鉄壁」と肯定的に評価するようになったのも、メディア、とくに政治部が「独裁制を是とする」というマインドを刷り込まれていった結果だと思います。


山崎:その菅官房長官に厳しい質問を浴びせていたのが、東京新聞の望月衣塑子記者でした。望月記者に当時の会見場の様子について聞いたことがあるのですが、周囲にいる大手メディアの政治部記者は、望月記者を擁護せず、むしろ「余計なことを言うな」と攻撃してきたと聞いて驚きました。
 政府の記者会見が何のために行われ流のかというと、政策の問題点の検証です。「この政策にはこんな問題点があるのでは?」と記者が指摘することで、政策をよりよいものへと修正していく。質疑応答はそのために存在します。


僕はこの山﨑さんの望月衣塑子記者擁護を読んで、この本を閉じたくなりました。
望月記者の質問は「問題点の検証」ではなく、彼女の「お気持ち表明」「自分が目立つために限られた時間を浪費する迷惑系新聞記者」だとしか僕には思えないのです。ちゃんと問題点を指摘して官房長官に遮られているのならともかく、権力者に逆らっている(ように見える)から、何をやってもOK、なのでしょうか。
やりかたに問題はあるけれど、権力に対抗しようとしているのは評価する、という程度ならともかく、記者会見での望月記者の手法をここまで肯定できるのは、ちょっと信じられない。

僕は自民党支持者ではないけれど(とはいえ、野党を積極的に支持しているわけでもないのですが)、二人揃って、「敵とみなしたものは何をやってもダメ、権力の濫用、陰謀」で、「味方はどんなやり方でも許す」みたいな党派性バリバリの姿勢には、かなりウンザリしながら読んでいました。
むしろ、「安倍さんもこの人たちにここまで言われれるほどひどくはなかったのでは……」と思えてきたくらいです。

内田:今回(2024年)の米大統領選挙の報道で僕が一番ショックを受けたのは、あるヒスパニック系の市民が取材に対して「中南米からの移民のせいで自分たちは迷惑している。だから、自分はトランプに投票する」と述べていたことです。自分たちと同じ人種で、同じスペイン語を話し、同じように職を求めてアメリカにやってきた同胞を、自分たちの既得権益を脅かすものとして排除しようとする。
 同胞意識よりも自己利益が大事だ、と。この人が個人的にそう思うことは止められません。でも、それを堂々と政治的意見として公言できるということに僕は衝撃を受けました。恥じらいとかためらいというものがない。これはもはやMAGA(メイク アメリカ グレート アゲイン)でも何でもない。
「自分さえよければ、それでいい」主義です。アメリカがどういう国であるべきかなんてもう何も考えていない。ここにはもう「友愛」という政治的モメントがまったく働いていません。隣人も、同胞もどうなってもいい、自分だけ生き残ればいいというのは、民主主義社会においては恥ずべき発言です。でも、そのような個人の意見を大手メディアが傾聴すべき意見であるかのように報道したことにも僕は衝撃を受けました。


僕も「自分さえよければいい」と「公言」できる世の中になったことに違和感はあるのです。
アメリカのトランプ大統領ウクライナ戦争の停戦を仲介しようとしつつも、ウクライナの資源の権益を得ようとしていることには、「アメリカって、そんな国なのかよ、火事場泥棒みたい……」と思いました。

「世界の警察」を標榜し、介入していくアメリカには鬱陶しさを感じていたけれど、少なくとも、世界の方向性を示そうとする大国としての矜持はあったのに。
「そんなヤツだとは思わなかった」っていうのは、自分の家族に対する悪口みたいなもので、自虐としてネタにすることはあっても、他人から指摘されるとムカつく、というのもわかるのだけれど。

「中国は歴史上、(異民族政権の元寇以外では)直接日本に攻めてきたことがないのだから、大陸への領土拡張の意欲はあっても、日本を支配しようとはしないだろう」
みたいな話に関しては、「そうであってくれればいいけれど、それをこちらから期待するのはリスクが高すぎるだろう」と呆れてしまいました。

僕が20年近く前にネット経由で知って、影響を受けた内田先生は、歳を重ねて変わってしまったのか、僕のほう、あるいは世の中が変わってしまったのか?
20年も経てば、変わるほうが当然、なのかもしれませんが。

正直、内容よりも、内田樹先生も僕も、こんなふうになっちまったなあ……と嘆息しながら読んだ記憶しか残りませんでした。
 

fujipon.hatenablog.com
fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター