第95回アカデミー賞で国際長編映画賞ほか4部門を受賞した「西部戦線異状なし」のエドワード・ベルガー監督が、ローマ教皇選挙の舞台裏と内幕に迫ったミステリー。
全世界14億人以上の信徒を誇るキリスト教最大の教派・カトリック教会。その最高指導者で、バチカン市国の元首であるローマ教皇が亡くなった。新教皇を決める教皇選挙「コンクラーベ」に世界中から100人を超える候補者たちが集まり、システィーナ礼拝堂の閉ざされた扉の向こうで極秘の投票がスタートする。票が割れる中、水面下でさまざまな陰謀、差別、スキャンダルがうごめいていく。選挙を執り仕切ることとなったローレンス枢機卿は、バチカンを震撼させるある秘密を知ることとなる。
2025年映画館での鑑賞4作目。平日の朝からの回で。観客は30人くらいでした。
第97回アカデミー賞で作品、主演男優、助演女優、脚色など計8部門でノミネートされ、脚色賞を受賞した作品。
日本での公開は2025年3月20日からだったのですが、4月21日に教皇フランシスコが逝去したことで、この「教皇選挙(コンクラーベ)」があらためて注目されることになりました。
僕はカトリックの信徒ではないのですが、世界史にはずっと興味があり、教皇を決定するために昔から行われてきた「コンクラーベ」という慣習についてもある程度文章的な知識はありました。
とはいえ、いまの時代に外部との連絡を遮断された密室で、一定得票数を獲得した候補者が出るまで、延々と投票を繰り返す、という「教皇選挙」がどのように行われるのかは想像もつきません。
この映画では、投票者であるカトリックの上層部の枢機卿たちとその世話をするスタッフ、修道女たち以外は、一生見るはずがない光景が描かれているのです。
歴史好きとしては、コンクラーベって、あのミケランジェロの『最後の審判』が描かれているシスティーナ礼拝堂で、こんなふうに机が並べられて、枢機卿たちが座って、学級委員の選挙みたいにやっているのか、でもこれ、毎回の投票のたびに、みんなが投票を終えるまでの待ち時間がつらそうだな……と思いながら観ていました。
ああ、こんな服を着ているのか、こんな食事をしているのか、こんなビジネスホテルみたいな部屋に泊まっているのか、など、ディテールにもいちいち感動してしまいました。
どこまで「リアル」なのかは判断しようがないのだけれど、カメラが入って中継されているわけでもない「秘密の儀式」を、よくここまで映像化できたものだなあ、と。
ミステリー、サスペンスとしては、教皇の有力候補者たちがお互いの嘘や隠し事を暴きあい、頂点に上り詰めたい、という(自覚していなかったはずの権力欲)をあらわにしていくという、そんなに驚くような内容ではありません。
聖職者たちが清廉潔白ではない、というのは、近年報じられている、宗教関係者のさまざまな不祥事でみんな「どうせそんなものだろ」と思っているでしょうし、権力欲が全くない人間が、枢機卿という教会の要職に到達するのは難しいはず。
例えとして適切かどうかはわかりませんが、野心も権力欲もない人間は政治家や国会議員になろうとはしないだろうけれど、世間は国会議員に、ときに「清濁合わせ飲む強烈なリーダーシップ」を求め、またあるときには「クリーンさ」を重視する。
教皇選挙の有力候補者たちは、それぞれ「曲者」であり、だからこそ多くの票を集められるのです。
聖職者というのは、金銭欲とか物欲とか性欲などの他の欲望が抑制されている(べきだと考えられている)だけに、「権力欲」が強くなりやすいのかもしれません。
「教皇」というのは、歴史上、宗教家としての清貧さやカリスマ性よりも、政治力や実力者との結びつきで決められることが多かったのです。
先日逝去された教皇フランシスコの「弱いものに寄り添うスタンス」には僕も敬意を抱いていますが、本当に純真無垢なだけの人だったら、きっと教皇の座には届かなかったのだろうな、なんて、この映画を見ていると考えてしまいます。
世界史・日本史で知るかぎりでも、信仰に篤く、布教につとめ、信者に寄り添った神父たちの多くは、伝道中に故郷から離れた土地で横死したり殉教したりしています。
現代では、さすがに「殉教」というのはそんなに多くはないとは思うけれど。
教会内部では「これまでのヨーロッパの、イタリアのキリスト教の伝統に回帰しないと、『なんでもあり』になってしまって、教団として成り立っていかなくなっていく」という危機感を抱いている派閥と、「多様性の時代だから、他宗教の信者も含めて、寛容に、広範囲に様々な形での信仰を認め、受け入れていくべきだ」という派閥があることも示唆されています。
後者のリベラルな態度のほうが「現代的」だとは思うのですが、それなら、どこまで許容されるべきなのか、あまりにも寛容すぎる宗教に存在意義はあるのか、もっと「強い縛りと一体感をもたらす宗教(この映画のなかでは、イスラム教がヨーロッパに浸透してきていることが触れられています)に、やられ放題になってしまうのではないか。
僕も、自分は「偉くなることに興味がない人間」だと思い込んで生きてきました。
しかしながら、こうして50歳を過ぎて、現在とこれからの自分のことを考えてみると、今まで何をやってきたのだろうなあ、と思うことがあるのです。
この『教皇選挙』では、宗教の世界で、神に仕える身の代表である、カトリックの枢機卿たちが、投票が進んでいくにつれて、なりたくなかった、自分はその器ではない、と公言していたはずの「教皇」という最高権力者の座への野心をあらわにしていきます。
彼らだって、最初に信仰の世界に入った動機は「教皇になる」「教会で偉くなる」ではなかったはず。
それでも、人は欲望に囚われてしまう。
まだ若くて、「何にでもなれる」と思っていた時期は、そんなことはなかったのかもしれない。
でも、歳を重ねて、人生の終わりが見えて、自分が登れる山の頂上は、あそこしかない、とわかったときに、そこに辿り着かないと、死ねない、そんな執着を消せなくなってしまう。
純粋で、清貧でいるのは、なんと難しいことなのだろうか。
僕はこの映画の終盤の、いわゆる「どんでん返し」に、正直、がっかりしました。
そんなにうまくいくわけないだろ、と思うし、なんだったら、それも含めての「陰謀」だったほうがスッキリする、と感じたくらいです。
人は、そう簡単にこれまで信じてきたものを捨てられないし、変化も望まない。
「改革」や「破壊」を望む声があっても、大部分の人は「あくまでも自分が理解できる範囲で」だと思います。
でも、そういう「おとぎ話的な物語」にしたからこそ、この映画はエンターテインメントとして「お目こぼし」をカトリックの教会からしてもらえたのかな、とも感じました。
現在のカトリックの問題点や、聖職者たちが抱えている葛藤にも踏み込んでいるだけに、「いやエンタメのミステリー映画ですから。だってこんなに荒唐無稽なお話ですよ」という結末にしたような気がしてなりません。
この映画、「コンクラーベって、こんな感じなんだ」という「イベント鑑賞」だけでも、歴史好きにはたまらない作品だと思います。
そして、「信仰と権力欲」「加齢と妄執」、さらに僕は「自分自身が見ないふりをしてきた己の権力欲」を再発見せざるをえませんでした。
やっぱり「ラストは安直な気がして好きじゃない」けれど、スクリーンで「現実」を観たいわけじゃない、と言われればそうですね、としか言いようがないし、「雰囲気映画」としてだけでも大好きです。