琥珀色の戯言

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【読書感想】なぜ人は自分を責めてしまうのか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

自責感とうまくつきあう。
当事者の言葉を辞書として、私たちを苦しめるものの正体に迫る。
公開講座をもとにした、もっともやさしい信田さよ子の本。

「すべて自分が悪い」というふうに自分の存在を否定することで、世界の合理性を獲得する。この感覚を、自責感といいます。臨床心理学では、自責の問題はほとんど扱われてきませんでした。この本では当事者の言葉を辞書として、自責感だけでなく、母と娘、共依存、育児といったものにまつわる問題を考えていきます。講座の語り口を活かした、やさしい一冊です。

「私が念頭に置いていたのは、家族の問題、母との関係、配偶者との関係などに困っているひとたちだった。いわゆる専門家ではなく、困っているひとたち(当事者)に向けて私は話をしてきた……本書は、かなりシリアスな内容が、わかりやすい文体で書かれた一冊になったのではないかと思っている。」(本文より)


 臨床心理学者で、20世紀末に「アダルトチルドレン」という概念を広め、『母が重くてたまらない:墓守娘の嘆き』などの著書でも知られる信田さよ子さんが、コロナ禍のなかで行ったオンライン講座を書籍化したものです。

 僕は、「アダルトチルドレン」とか「毒親」みたいな概念は、あまりにも便利に使われ過ぎてしまって、かえって、「流行りもの」として消費され、重みを失っているのではないか、という感じもするのです。

 この本では、信田さんが、これまでの自分の研究の成果や臨床経験をもとに、アダルトチルドレンやアルコールなどの依存症、親子、とくに母と娘の問題について、かなり読みやすく語っておられるのですが、大流行した概念なだけに、読んでいて、「偉くなった学会の権威の手柄自慢みたいなもので、話としては面白いけれど、あくまでも『この人の意見』として聞いておいたほうがよさそうだな、とも思いました。

 信田さんは、この本の冒頭で、フロイト精神分析は「父と息子」がテーマだった、と仰っています。
 そこから導かれた「エディプス・コンプレックス」という言葉から、様々なフロイトの理論が構築されていったのです。

 それに対して、1970年代の「フェミニストたちによる論考」で、「どうして精神分析に女の位置はないのか」という問題提起がなされ、その後の精神医学や家族観に大きな影響を与えることになるのです。

 当初は、「母も娘も同じ女性なのだから、共闘していこう」という考えからスタートしていくのですが、信田さんは、「それにちょっと違和感があった」と述べています。

 1970年代のフェミニストたちの論考が、日本のフェミニスト・カウンセリングに繋がっていきます。
 日本でフェミニスト・カウンセリングが開始されたのが1980年のことです。河野貴代美さんが、アメリカから自分の知見を持って帰国され、日本で「フェミニストセラピー・なかま」を立ち上げられました。河野さんはのちに「セラピー」という言葉を「カウンセリング」に変えられました。 
 そこに来る女性たちの多くは、夫との関係だったり、女性としての生きづらさの問題を抱えていたりしたんですけど、その一部は「お母さんとの関係」だったのです。ですから、日本で最初に母との関係をキャッチしていたのがフェミニスト・カウンセリングだったんですね。この事実に、私は注目しなければいけないと思います。


 それから時は下りまして。
 第2期は、AC=アダルト・チルドレン(Adult Children)の一種のブームが起きた1996年です。私には得意分野がいくつもありますけど、そのなかでも大きいのはこのACです。
 ACという言葉はもともと、多くはお父さん、一部はお母さんですが、アルコール問題のある親のもとで育った人たちのことを指します。
 その人たちが大人になってから抱える特有の生きづらさを、いまで言うと当事者として、自分はACであると自己認識する。これが、ACという言葉のスタートだったのです。


 現在の僕はACに対して、「大人になりきれないというか、分別がないまま年齢を重ねてしまった人」みたいなイメージを持ってしまっているのですが、専門家によるACの定義は、少なくとも最初の時点では、かなり限定的なものだったのです。
 言葉や概念として流行する、一般化する、というのは、プラスの面もあるのでしょうが、定義が不明瞭になり、対象者が増え過ぎて、困った大人はみんなアダルト・チルドレン、みたいになってしまったような気がします。

 この本では、時代の変遷に伴って、カウンセリングではどのような流行り廃りがあったのか、あるいは、信田さんが接するクライアント(カウンセリングの対象者)の傾向は、どう変わっていったのか、も知ることができます。

 「家族なんだから」「親は子どもを心配し、子供は老いた親を(とくに娘が親を)世話するのが当たり前」とされてきた「常識の崩壊」や、「愛情表現」だと言い訳されてきたことが束縛や虐待とみなされるようになっていくプロセスも述べられているのです。
 もちろんそれは、一朝一夕になされたことではありません。

 母のカウンセリングをつづけていくうちに、娘に対して「謝罪のお手紙を書かれたらどうでしょうか」というふうに言うことがあります。「謝罪ですか?」と一瞬抵抗を示すんですが、「そうですね、悪い母だったわけですから謝らなくっちゃね」と頷き、「手紙を書いてまいります」と。
 彼女たちの快適た手紙を私も読ませてもらいます。読み終わって、腰が半分抜けるくらい驚いた。まるで謝罪になっていないんです。
 多くは、「私があなたをどんなに苦労して育てたか」という話で終わる。自分の苦労だけが書いてある。私が何度も「これは謝罪の手紙ですよね?」と聞いても、「はい!」とおっしゃる。彼女たちにしてみると、自分があなたをどんなに苦労して育てたか、手塩にかけて育てたんだよと言うことが、謝罪なんです。
 DVの加害者プログラムも、似たところがあります。自分がどんなに一生懸命に家族のために働いてきたかを訴える。それが妻への謝罪なのです。
 ただ、まれに娘から批判されて、それを受け止めようとする親もいるんですよ。なかには、真剣に謝る親もいるんです。私、偉いと思う。
 でも、そんな親、少ないですよ。娘からしたら「信田さん、親をいい気にさせないでください」と思うかもしれないけど、やっぱり、謝罪もできない親から比べれば、がんばって謝罪の手紙を書こうとするだけ、自分はよくやってるんだなと思ってもらいたい。
 多くの苦しむ娘たちは、心のどこかでお母さんにわかってほしいと思っています。
 ほんの1%であったとしても。


 これを読んでいるときは、信田さん側からの見方になるので、「毒親っていうのは、どうしようもないよなあ」と思うのです。実際、メディアや本などで語られる「子どもを支配するひどい親のエピソード」には、僕も「なんだこれ」と呆れ、怒りを感じます。
 その一方で、親というのは、ほとんどの場合「自分なりに一生懸命子どもを育てている」はずで(僕もそうです)、親からは「こうした方が良いのではないか」という示唆のつもりでも、自活できない子供にとっては「強制」になってしまうことも少なくありません。
 子どもの自由にさせてあげたいけれど、本当に自由にしたら、一日中テレビゲームばかりやっている、それでもいいのか?
 制限するとすれば、どのくらいが「適切」なのか?
 
 僕自身の記憶を紐解いてみても、子どもというのは、親が思っている以上に親のことを観察しているし、影響も受けてしまうのでしょう。
 でも、人は自分が大人に、親になると、子どもだった頃の記憶を失ってしまいがちです。

 いまの法律では、子供は親を離れて生きられないことになっています。虐待と児童相談所が認定すれば、あるいは保護が決まれば養護施設に入ることができますが、それだって、いつかは家族と再統合されるのが前提です。親に勝るものはない、そういう価値観は変わらない。
 家から一歩外に出ると、学校でもどこでも「あなたを大事に思ってるのは親だけだよ」と言われるわけですね。
 学校の作文で自分の家族について正直に書きなさいと言われて、「お父さんは毎晩私の布団に入ってきて私の体を触ります」と書いた方がいます。そしたら先生が「嘘を書いてはいけません」と怒った。それから、学校というのは学校の期待する自分を表明するところだと思って生きてきた人もいます。
 どうすれば生きられるのだろうか。どこに向かって着地すれば、自分が自分でいられるんだろうか。


(中略)


 そのなかを生きるにどうしたらいいか。
 それには、たったひとつの合理性があるんです。この言葉さえ自分で覚えていれば、そういうなかを生きることができるんです。
「すべて自分が悪い」
 自分に包丁を向けられる。おじいちゃんかお父さんに首絞められそうになる。そういう時に、「自分が悪いんだ」と思えば、自分にとって説明がつくんですよ。
 昔「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもみんなあたしがわるいのよ」という歌があったんです。知ってる人は、昭和の時代のある部分を生きた人だけだと思いますけどね。
 私は、あれはよく虐待を言い表している歌だと思う。昨日の黄色が今日は黒になったり、包丁を向けられたりするのも、ぜんぶ私が悪いんだって思えば納得できる。虐待的環境を生きるということは、自分の存在を否定することで、世界の合理性を獲得することなんですね。
 すごいことです。自分を徹底して否定することで、世の中が説明できる。世の中はそれなりに合理的なんだ、なぜなら自分が悪いから。こういうことです。


 「そこまで自虐的に、なんでも自分のせいだと考えなくていいのに」と他者としては思うのだけれど、本人にとっては、「そういうふうに考えることで、ようやく世界を合理的なものとして受け止められている」のです。
 だからこそ、その外部からは理解困難な「自責感」は、そう簡単には揺らがないし、取り除けない。

 「全部社会が悪い」という方向に行って、社会に無差別に「復讐」する「無敵の人」になってしまうこともあるんですよね。

 人間というのは、結局のところ、本人にとっては「合理的」に生きているのかもしれません。
 その合理性が、他者からはどんなにイビツなものに見えていたとしても。


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