琥珀色の戯言

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【読書感想】聖なるズー ☆☆☆☆

聖なるズー

聖なるズー


Kindle版もあります。

聖なるズー (集英社学芸単行本)

聖なるズー (集英社学芸単行本)

内容(「BOOK」データベースより)
犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」。性暴力に苦しんだ経験を持つ著者は、彼らと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か、考察を重ねる。そして、戸惑いつつ、希望のかけらを見出していく―。2019年第17回開高健ノンフィクション賞受賞。


 人間と動物の間に「性愛」は存在するのか?
 人間と動物との「性行為」は許容されるのか?
 この本を読む前に、僕がこんな質問をされたら、正直、「さすがにそれは無理筋というか、『とにかくやりたい人間』の勝手な思い込みなんじゃない?」と答えたと思います。
 でも、著者が、犬や馬をパートナーとする動物性愛者「ズー」たちとしばらく生活をともにしつつ取材したこの本を読むと、「そんなのあるわけないだろ!」と全否定することもできないのかなあ、と感じました。
 とはいえ、これは本当に難しいというか、できれば触れずに生きていきたい問題、ではありますね……

 日本では現在も、動物性愛という言葉は浸透していない段階だ。ドイツでもまだそう認知度が高いわけではない。私がこのテーマに取り組んでいると話したら、ドイツでもほぼ全員が驚きを示した。反応は日本とそれほど変わりない。ただ唯一の違いは、ほとんどのドイツ人は酔っ払っていない限り笑わなかったことだ。戸惑いを隠せない表情を誰もが一瞬見せるのだが、ひと呼吸おいて真面目なふうを装う。私を馬鹿にしてはいない、という意思表示だ。ただ、彼らにとっても「動物とセックスをする人々」の話が寝耳に水なのは間違いない。「この国にもそんな人がいるって? 噓だろ?」としばしば言われた。
 だが事実、世界でいまのところドイツにだけ、動物性愛者による団体「ゼータ」が存在する。


 著者は、主にその「ゼータ」のメンバーに対して取材をしています。
 この本を読むと、ドイツという国は「性」の多様性、みたいなものに対してかなり寛容な印象を受けるのですが、それでも、動物性愛をカミングアウトしている人は少数なのだそうです。

 動物性愛者たちは、自らを「ズー」と称する。ズーとは、動物性愛者を意味するズーファイル(zoophile)の略語だ。本書でもここから、彼らのことをズーと呼ぶ。
 私は2016年秋の1か月と2017年夏の3か月、合計およそ4か月間をドイツで過ごし、ゼータとその周辺のズーたち合計22人と知り合った。男性が19人、女性が3人だ。男性たちのうち、ふたりはチャットでしか話せなかったため、あまり情報がない。
 直接には接触できなかったそのふたりを除いた二十人のうち、「自分は生来のズーである」と答えたのは12人で、すべて男性だった。単純計算ではあるが、私が出会った人々のうち60パーセントが生まれつきのズーだと感じていることになる。男性のみで計算すると17人中12人となり、その割合は70パーセントにまで上がる。また、これまでに知り合った女性のズーたちのなかで、「生まれつきズーだ」と言った人はいなかった。

 ズーのなかにも、いろいろな違いがある。ミヒャエルは動物にしか性的欲望を抱かないが、私が出会ったズーのなかには人間とも恋愛やセックスをする人もいる。
 性的対象となる動物の性別にも違いがある。自身が男性で、パートナーの動物がオスの場合をズー・ゲイという。自身が女性で、パートナーがメスの場合はズー・レズビアン。パートナーの性別を問わない場合はズー・バイセクシャルという。もちろん、自分とは異なる性別の動物を好む、ズー・ヘテロもいる。また、セックスでの立場を示す言葉もあって、受け身の場合はパッシブ・パート、その逆をアクティブ・パートという。


 著者が取材できたのは、性行為で人間が受け身の立場である「パッシブ・パート」のズーがほとんどでした。
 犬などの動物にも、人間に対する「性欲」がある、自分はそれを感じることができる、と「ズー」たちは言うのですが、それでも、人間の側から動物への挿入を伴うような「アクティブ・パート」は、動物に自分を刺激してもらう「パッシブ・パート」よりも、「動物を虐待しているのではないか」と見られることが多いのです。
 そもそも、動物の人間に対する「意思」とか「性欲」がわかるのか、わかることを証明できるのか?
 相手の「同意」が得られない性行為が許されないとするならば、動物相手なんて「論外」ではないのか?

 ところが、「ズー」たちの話を読むと、そういう「種を越えた性愛」みたいなものも、あるところにはあるのかもしれないな、という気がしてくるのです。


 著者は、日本で会った20歳の浪人生・達也(仮名)さんから、こんな話を聞いたそうです。

「ラッキー(ゴールデン・レトリーバーのオス)からの誘いかけが数カ月続きました。僕は彼の気持ちがわかって、かわいそうだという思いのほうが大きくなった。でも僕もどうしていいかわからないから、なにもしないでいたんです」
 ラッキーの行動がどんなものか、私は尋ねた。達也の話は、次第に具体的になっていった。
「飛びかかってくるんです。わざわざ僕の後ろに回って、腰あたりに抱きついて、ラッキーは腰を振るんです。その仕草のなかで精液が出ることもある。だんだん、彼がこの行動をする意味がわかってきて」
 はじめのうち、達也はそれを怖いとも感じた。一般的な飼い主ならばするであろう態度を、彼も取った。行儀が悪いことだとラッキーに教えるために、𠮟ったのだ。
「だけど、僕はしっかり𠮟れない。他の兄弟ならば、気味悪がって叱り飛ばすんじゃないかと思う。でも、僕は彼の気持ちがわかってしまって、結局は相手をしてしまうんです。最初は、手でしてあげていました」
 つまり、ラッキーのマスターベーションをするところから始まった、ということだ。そのうち、達也はあることに気づいた。ラッキーの行動は、自分の肌の露出が多いときほど激しくなる。
「春や夏の暑いとき、家ではトランクス一枚で過ごすことがあるんです。そういうとき、明らかにラッキーはいつもより興奮していて、腰を振る行為も激しくなる。僕はだんだん、彼に誘われていると思うようになりました。これは、僕の解釈によるんだとは思います。ほかの人なら誘いと思わないかもしれませんよね。でも僕はそう思った。そして誘いに乗ってしまった」
 達也は、ラッキーとセックスに及んだ。ラッキーのペニスを受け入れた。彼の混乱は、この行為にも関係している。彼は、自分をゲイだと感じたことは一度もなかったからだ。
「僕は異性愛者だと思っています。人間の女性に惹かれますし。でもラッキーともこんなことをしてしまって……。ラッキーのことも大好きなんです」


 ズーたちの体験談を読んでみると、動物の側から誘われたという人、あるいは、動物が求めているのがわかる、という人がいるのです。
 そんなの思い込み、だと言い切る自信は僕にはありません。動物にだって「性欲」はあるのだし、それがもっとも身近な生き物である飼い主に向かうのは、ありうる話ではありますよね。

 日本でもドイツでも、周囲の人々にズーの話をするとしばしばこんな質問をされる。「ペドフィリア小児性愛)の問題に関してはどう思う?」「ズーがいいなら、ペドもいいことにならない?」
 この質問が驚くほど多発する事実が、私にとっては興味深かった。


 これに対して、著者は、ズーたちは性愛の対象の動物を「成熟した存在」だとみなしているのだ、と述べています。
「ズーたちは、ペドフィリアを嫌うことが多い」そうです。
 成熟した存在であれば、性欲があるのは当然だし、相手が意思を明らかにしているのであれば、こちらが同意すれば行為に及ぶのは自然なことなのだというのが、彼らの考え方なのです。
 
 正直、そんなの人間側が都合よく解釈しているだけだろう、と、この本を読む前だったら、僕は一蹴していたはずです。
 それでも、なんだか不自然な感じというか、抵抗感があるのも事実なんですよ。
 何に対する抵抗感なのか、僕にもわからないのだけれど、「お互いの同意があれば、なんでもありなのだ」と言われると、ちょっと待てよ、と思ってしまう、というか……
 そもそも、「人間に対して発情するしかない環境に置くこと」そのものが、動物にとっては、不自然なのかもしれないし……
 「小児性愛は許されない」のは、「子どもには判断力がない」という決めつけだと反論することだって、可能ではあるのです。

 「マイノリティの権利」「多様性」とは言うけれど、現実社会において、「本人たちが良ければ、なんでもあり」を実現するのは、かなり難しいのではないか、と、これを読みながら考えずにはいられませんでした。

 著者は、性暴力を受けてきた経験から、「愛がわからない」と悩み、この研究をはじめたそうです。
 
 僕も、この本を読んで、「愛ってわからないな」とあらためて思いました。
 だからこそ、「規範」とか「常識」みたいなものを、多くの人が必要としているのかもしれません。


fujipon.hatenadiary.com
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動物裁判 (講談社現代新書)

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