琥珀色の戯言

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【読書感想】藤井聡太はどこまで強くなるのか 名人への道 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「負ければニュースになる」ほど強い藤井聡太五冠。果たして史上最年少名人記録は更新されるのか?
現記録保持者にして十七世名人である著者が、さらなる進化を続ける藤井将棋と、AI研究の深化により過酷さを増す将棋界のいまに迫るとともに、棋士・将棋界にとっての「名人」の意味、名人位を巡る棋士たちの戦い・思いを自らの経験も含めて明かす。


 これを書いているのは2023年2月なのですが、将棋界の数々のタイトルを獲得している若き天才・藤井聡太さんの王将位に、前人未到の全タイトル独占(当時は七冠)を成し遂げた将棋界のレジェンド・羽生善治さんが挑戦する7番勝負が行われ、大変な盛り上がりをみせているのです。

 現時点(2023年2月17日)で、両者は2勝2敗の五分となっており、第1、3局を藤井王将、2、4局は羽生九段と、それぞれ先手番が勝利しており、僕は「本当に強い人どうしがノーミスで戦えば(あるいは、AI将棋が究極の進化を遂げれば)、将棋というのは、先手番が必ず勝つゲームになるのではないか、などと想像してしまうのです。
 僕は羽生さんとほぼ同世代でもあり、羽生さんに憧れ、応援し続けているのですが、王将戦が始まる前までは、いや、第1局が終わった時点では「せめて羽生さんにひとつは勝ってもらいたい。ストレート負けだけは見たくない」と思っていたのです。そのくらい今の藤井王将は強いし、最近の両者の対戦成績では、藤井王将が圧倒的に勝ち越していました。

 しかしながら、ここまでの4局は、「せめて一矢」どころか、羽生さんは藤井さんを試すように、あるいは新しい将棋の戦法を最強の相手とつくり上げていくのを楽しむように、レジェンドの底力を見せてくれています。
 ああ、この二人の真剣勝負をみることができただけでも、いま、生きていてよかった、そう思えるくらいです。

 そして、この対局であらためて感じたのは、僕のような「下手の横好き」の棋力でも、AIがリアルタイムで出す「評価値」で、形勢がわかる(と思っている)し、この2人の対局でさえも、観戦者の多くは「AIが出している答えに沿った手を指せるかどうか」をドキドキしながら見ている、ということなんですよね。
 AIは、あっという間に人間の棋力を超えてしまったし、それが当たり前のことになりすぎて、もはや、「人間とAIのどちらが強いか」ではなく、「人間はどのくらいAIに近づけるか」になってしまったのです。


 前置きが長くなってしまいましたが(この王将戦については、語りたいことが多すぎるので)、この新書は、「竜王」と並ぶ将棋界の二大タイトルのひとつであり、将棋が一番強い人の代名詞でもある「名人」と藤井聡太という棋士について、最年少名人就位記録を持っている谷川浩司十七世名人が綴ったものです。
 
 若くして「天才」「新世代の旗手」として活躍してきた谷川さんだからこそ、藤井さんの現在地や将棋界で若くして名人位に就くことについて、説得力を持って語れるのではないかと思うのです。

 僕のイメージでは、藤井さんは「羽生さんを超えるかもしれない次の世代の主役」だったのですが、谷川さんは、さまざまなデータから、藤井さんの圧倒的な強さを紹介しています。

 藤井竜王のすごさは、複数回の対局で勝者を決める「番勝負」における圧倒的な強さにも表れている。
 2022年12月まで11回のタイトル戦で番勝負を行い、全勝している。しかも完封勝ちも多い。

【2020年】
棋聖戦(vs.渡辺明) 3勝1敗で奪取
王位戦(vs.木村一基)4勝0敗で奪取

【2021年】
棋聖戦(vs.渡辺明) 3勝0敗で防衛
王位戦(vs.豊島将之)4勝1敗で防衛
叡王戦(vs.豊島将之)3勝2敗で奪取
竜王戦(vs.豊島将之)4勝0敗で奪取

【2022年】
王将戦(vs.渡辺明) 4勝0敗で奪取
叡王戦(vs.出口若武)3勝0敗で防衛
棋聖戦(vs.永瀬拓矢)3勝1敗で防衛
王位戦(vs.豊島将之)4勝1敗で防衛
竜王戦(vs.広瀬章人)4勝2敗で防衛


 これまでタイトル初挑戦からタイトル戦を連勝した棋士は、名人戦第1期から5連覇を果たした木村義雄十四世名人を筆頭に、塚田正夫名誉十段(名人2期)、私(名人2期)、藤井猛九段(竜王2期、竜王戦は3連覇したが、3連覇の直前に王座に挑戦、獲得ならず)、そして藤井(聡太)さんのわずか5人。うち木村名人の第4期、5期は戦争などのため開催されなかった。
 藤井さんのタイトル戦11連勝は、他を圧する傑出した記録である。この事実だけを見ると、時代を築いた大山、中原、羽生の3人をすでに凌駕していると言える。これだけ勝ち続けていると、「藤井さんが番勝負で負けたら、そちらのほうがニュースだ」という声さえ聞こえてくる。
 番勝負の強さは、確率的に言えば勝率と相関関係にある。
 藤井さんはプロ棋士になって以来、2022年12月22日時点での通算勝率は8割3分4厘と驚くべき数字を記録している。
 勝率が高いほうが三番勝負より五番勝負、五番勝負より七番勝負と番数が多くなるに従って勝つ確率は高まる。
 タイトル戦で勝つには、三番勝負なら2勝1敗で勝率6割6分、五番勝負なら3勝2敗で勝率6割、七番勝負なら4勝3敗で5割7分あればいい。
 もちろん、これは単なる机上の計算であり、実際は対戦相手の状況や心身のコンディションなどによって勝敗は左右される。

 これまでに類を見ない強さだ。一時代を築いた大山(康晴)先生は相手の弱点を見抜く勝負の天才だった。中原(誠)先生は攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける「中原自然流」。羽生さんが若い頃に見せた逆転勝ちは「羽生マジック」と呼ばれた。
 それぞれ圧倒する強さながら、こちら側の努力や工夫によって勝機を見出せる強さだった。ところが、藤井将棋にはそうした隙がまったく見えない。
 そのことは、2016年のプロデビューから公式棋戦の勝率が毎年度8割を超えていることにも表れている。あの羽生さんでさえ、低段時代を除けば勝率が8割を超えた年は、全七冠制覇を達成した1995年度の1回だけなのだ。


 藤井聡太さんは、相手も強豪棋士ばかりのタイトル戦を11回戦って全勝、しかも、最終戦にまでもつれ込んだのは、2021年の豊島将之さんとの叡王戦だけで、あとは2勝以上の差をつけて勝っているのです。豊島さんは、藤井さん相手に最初は勝ち越しており、「藤井聡太の天敵」などと言われていたのですが、最近は藤井さんが圧倒的に勝ち越しています。
 羽生さんに対しても、今回の王将戦までは、藤井さんが圧倒的に勝ち越していたのです。

 羽生さんの「七冠」や、藤井さんがどんどんタイトルを獲っていくという「事件」が大きくとりあげられやすいのですが、実際は、ほとんどの棋士はたった一つのタイトルにも縁がなく、挑戦者にもなれずに引退していきます。
 相手も徹底的に研究してくるタイトル戦で勝ち続けることは、本当に難しい。
 ものすごく強い棋士の羽生さんの全盛期さえ、勝率8割超えは一度、つまり、5回対局すれば、1回は負けていた、ということになります。
 コンピュータを用いた研究が進歩し、新しい戦術もすぐに研究し尽くされてしまう、棋士の実力が拮抗した今の将棋界で、こんなに勝ち続けている藤井聡太さんは、これまでのレジェンドクラスの棋士と比べても「規格外」なのです。
 もちろん、これから藤井さんが広げた裾野の中から、藤井さんを凌駕するような若い才能が出てくる可能性はありますが。

 著者の谷川浩司さんは、自らの経験を踏まえて、「名人」に辿り着くまでの道のりの厳しさを語っておられます。
 どんなにその年に調子が良くても、名人戦の挑戦者を決める順位戦は、1年かけて1段階ずつクラスを上がっていかねばならず、このシステムになってから現在まで、途中で足踏みをせずにクラスを上げて、ストレートで名人位に就いた人はいないのです。藤井聡太さんや羽生さん、現在の渡辺明名人も、途中のクラスで足踏みをしています。最上位のA級、B1級では総当たりのリーグ戦なのですが、それ以下のクラスでは、対戦相手が誰になるかという運の要素があり、好成績を上げても、同じ勝率であればクラス内の序列上位の人に昇級の昇級が優先されるのです。
 どんなに強くても、C2クラスからいきなり名人になることはできません。
 その年、その回に絶好調であれば、いきなり下位クラスから下剋上を果たして挑戦者になれる可能性がある「竜王」とは違いがあるのです。


 谷川さんは、現役棋士として、「藤井さんに勝つ方法」についても検討されています。
 2022年6月の王位戦第1局で、豊島将之さんが藤井王位に勝った将棋について。

 藤井さんは先手番でも後手番でも、これが最善と自分が信じる戦い方を序盤から進めていく、いわば王道の戦い方である。形勢互角で、持ち時間の残りも同じぐらいで終盤に突入すると、藤井さんの圧倒的な終盤力に抗することは難しい。
 豊島さんはいま、藤井さんに勝てるとすれば、王位戦第1局のような戦い方が最も有効だと考えて判断したのだろう。すなわち事前研究を徹底して、藤井さんが初見の局面に持っていき、持ち時間を使わせることで戦局をリードする、という戦略である。
 実際、新聞観戦記での藤井さんの感想を読むと、豊島さんに攻め込まれて自玉が危険になった局面で、持ち時間の差が3時間もあったため、直観で浮かんだ何手かの変化をすべて読み切ることを断念したという。豊島さんの作戦は成功したということだ。

 こうした「藤井戦略」は、何もいまに始まったことでも、豊島さんに限ったことでもない。
 思い出すのは、藤井さんが渡辺明棋聖に挑戦して初タイトルを獲得した2020年の棋聖戦五番勝負である。
 渡辺さんが敗戦の弁で語った「弱者の戦い方」という言葉に、私のみならず将棋界全体が衝撃を受けた。
 2連敗してカド番に追い込まれた渡辺さんは、「ストレート負けだけは避けなければならない」と必勝を期して臨んだ第3局の作戦を振り返ってこう述べた。
「(第3局の対策は、)藤井君が負けた及び負けそうになった将棋を調べました。どういった展開になったときに形勢を損ねているのかを探ったのです。ある程度、相手の研究どおりに進んだ展開で苦戦していることが多いように感じました。しかも終盤で相手側が持ち時間を多く残しているのが、藤井君の負けパターンだと判断したのです。(略)それって、本来は弱者の戦い方なんです。その場の思考では分が悪いから、事前に研究で固めていく、少なくともタイトル保持者側が積極的に行う手法ではありません」(月刊「文藝春秋」2020年9月号)
 当時、藤井さんは無冠の挑戦者に過ぎない。渡辺さんは規制、棋王、王将の三冠を有し、この1ヵ月後には豊島名人から名人位を奪取する。
 その第一人者が「弱者の戦い方」と明言したのだ。

 僕はこれを読んでいて、今回の藤井王将と羽生九段の王将戦の第4局、先手の羽生九段が積極的な攻めを見せ、そのまま押し切った将棋を思い出しました。この将棋では、藤井王将は中盤でかなり持ち時間を使っていて、羽生さんと大きな差があったのです。
 僕は正直、すごい棋士なら、持ち時間が少なくとも凄い手を指せるはず、だと思っていたのです。でも、谷川さんの解説を読むと、すごい棋士だからこそ、持ち時間があればあるほど正確に読むことができるので、相手側としては、いかにして序盤から中盤で藤井さんを迷わせ、考えさせ、持ち時間を削るかが重要になってくるのです。
 最善手や定石に則った手ばかりだと、藤井さんはあまり迷わずに対応してしまうから、イレギュラーな状況にしてミスを誘うため、あえて最善手ではない、二番目、三番目の手を選択する、という作戦を取った棋士もいるのです。

 プロ棋士と将棋ソフトが対決した「電王戦」のなかで、「人間がコンピュータのプログラムのバグを突いて勝つこと」の是非が議論されたことがあったのを思い出します。
 この「対藤井戦略」は、あのときの「対将棋ソフト戦略」を彷彿とさせるのです。

 羽生さんは、藤井さん相手に第4局まで互角に戦っていて、「さすが羽生さん!」と僕などは嬉しくてしかたないのですが、今回の羽生さんの対藤井戦略は、羽生さんがひとりで築き上げたものではなくて、これまで大勢のプロ棋士が「AIに最も近い最強の棋士藤井聡太」に対して積み上げてきたさまざまな経験や試みてきた作戦の集大成なのです。
 もちろん、それを藤井さん相手にやり遂げられるのは実力と経験を兼ね備えたレジェンド・羽生さんだからこそ、ではあるのだとしても。

 王将戦の結果が楽しみであるのと同時に、このワクワクする真剣勝負が近いうちに終わり、ひとまずの決着がつくのは、少し寂しいような気がしています。
 いちばんこの勝負を楽しんでいるのは、羽生さんと藤井さんなのかもしれません。


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