琥珀色の戯言

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【読書感想】これでもいいのだ ☆☆☆☆

これでもいいのだ (単行本)

これでもいいのだ (単行本)


Kindle版もあります。

これでもいいのだ

これでもいいのだ

内容紹介
思ってた未来とは違うけど、これはこれで、いい感じ。疲れた心にじんわりしみこむエッセイ66篇。

私だってモデルサイズ「/女子アナ」が勝利するとき/私の私による私のためのオバさん宣言/コンプレックスと欲のバランス/初々しい、男たちのダイエット/ありもの恨み/選択的おひとり様マザー「/一生モノ」とは言うけれど/勉強しておけばよかったほか。

――私たち、これでもいいのだ!


 ジェーン・スーさんのエッセイを読んでいて思うのは、男である僕は、この本の読者として想定されていないのではないか、ということなんですよね。
 もちろん、ジェーンさんは男性をあからさまに排除しているわけではないのだけれど、同世代(30~40代くらい)の女性がメインターゲットであるように感じるのです。
 それはそれで、僕にとっては、「同世代の女性というのは、こんなことを考えているものなのか……」と勉強にはなるのですが。
 ただ、ここに描かれているのは、東京で暮らしていて、「世間」にあまり縛られないで生きている人たちのことなのだろうな、という気もします。
 
 ジェーンさんが女友達と餃子を食べに行ったときの話。

 あっという間に焼き餃子が運ばれてきたので、飛び散る肉汁をものともせずにかぶりつく。お互い黒っぽい服を着ていて良かったね。天才だね!
 嗚呼、「幸福」を「口福」と書くグルメな連中を許したことはなかったけれど、これを口福と言わずしてなんと言おう。完全に屈服だ。いや、屈福だ。汝の名は、餃子。
 すべてがうまく行く夜。つまり、Tonight is the night. ゆっくりと、精神と口が満たされていく。
「はい、ライス二つ」
 頭を上げると、私と同じくらい恰幅の良い女性店員が、両手にライスを持って立っていた。彼女は迷いなく、大ライスを私の前に、小ライスを女友達の前に置いた。
 わかる。わかりますよ。私たち二人の容姿から推測した、あなたの判断を誰が責められよう。しかし店員さん、あなたも今日まで生きてきて、その恰幅の良さで、幾度かの煩わしい勘違いをされてきたでしょう。大きな体ならいつも元気なはずだろうか、大きな体ならよく食べるはずだとか、大きな体なら常に明るいはずだとか。大きな体なら……。

 大きい私は大ライス。
 華奢な彼女は小ライス。

 その決めつけを、世間では偏見と呼ぶ。偏見は差別を助長する。理屈の上では、決して許してはならぬ行為だ。
「小ライスは私です」と言えば済んだ話だって? おっしゃる通り。けれど、彼女はあっという間に我々の元から立ち去ってしまったのだ。熱々のうちに運ばれねばならぬ。次の皿が彼女を待っていたから。そこに悪意の欠片もないのは、明白だった。

 私は心から、偏見のない社会の実現を望む。しかし、すべてをいちいち冷静に訂正する気力が、常に満ちているとは限らない。そんな自信はまるでない。
 かといって、その程度のことを気に病むのは馬鹿馬鹿しいと、したり顔で流すのも違うような気がする。ライスだったから笑えるが、この手の思い込みが、命取りになることもあるだろう。たとえば人種だったら? 性別だったら?


 僕はこれを読んで、ものすごくモヤモヤしてしまったのです。
 自分が同じ目にあったら、確かに不快だとは思います。
 スタイルとか見かけについて男よりもあれこれ言われることが多い(であろう)女性であれば、なおさら気になるのかもしれません。
 その一方で、こういうことを無くすために、店の人は、毎回「大ライスはどちらですか?」と確認するべきなのか。熟練した店員さんなら、それぞれの注文内容をちゃんと記憶していて、その通りに配膳するのかもしれませんが、それをすべての飲食店に求めるのは酷というものでしょう。

 これはさすがに過敏なのでは……というのと、「でもそれが『不快』なのもわかる……」という気持ちが入り混じってしまうのです。
 こういうのを放っておけば、人種や性別についての先入観からくる差別も「そんなの気にしすぎ!」と抑圧されるようになる、と考えるべきなのか、あまり細かいことまで、いちいち確認しなければならない社会は、かえって息苦しく、コストが高くなりすぎる、と判断するのか。
 単なる間違いや勘違いではなくて、コンプレックスを刺激されるようなことだったからこその反応でもあったはずです。
 そういうのは、他者が「我慢すべき」とか言ってもしょうがない。
 ジェーン・スーさんのエッセイには、こういう、僕が気付かなかった「生きていて、引っかかること」が丁寧に書かれていることが多いのです。
 勉強になる、と思うのと同時に、正直、「めんどくさいなあ」とも、感じてしまう。


 夏休みの朝のラジオ体操のスタンプカードの話も出てきます。

 さて、このスタンプカードが曲者だった。画用紙より少し硬い紙に枡目が印刷されており、マンスリーカレンダーのように、枡と日付が紐づけられている。つまり、カードを見れば、毎日来ているか否かが一目瞭然。
 スタンプが連打され、お団子のように連なっているうちは、ドーパミンもじゃんじゃん出る。しかし一日でも休んだら、そこには憎むべき白い空白が生まれてしまう。
 ここでやる気が半減してしまうのが、私の常だった。「あーもういいや、誰かが処刑されるわけでもあるまいし」とメロスは不貞腐れてしまう。昨日まではあんなに大事にしていたのに、空白は美しくないとばかり、今日はもう、カードを見るのも嫌になってしまう。
 大人になり、この仕組むはいかがなものかと思うようになった。行かなかった(行けなかった)ことをあんなにはっきり、空白で可視化する必要はなかったのではないか。
 プール投稿や、朝顔観察日記も同じだ。とにかく日本の小学生は、夏休みのあいだずっと、「継続こそ至高」と叩きこまれる。そのどれもが、連続性をスタンプやら絵やらで可視化し記録するシステムだった。
 なぜそこまでやらされたと言えば、継続を「日常の当たり前」として習慣化させるためだろう。頑張って続けるのではなく、息を吸うように続けるために、脳のなかに新しい回路を作るには、何度もそれを行う必要があると聞いたことがある。励みになるようにと、スタンプカードの類が生まれたのであろう。
 あの時の大人たちに教えてほしかったのは、「継続」と「連続」は別物だということ。スタンプカードは、あくまで連続性を強調するシステムではないか。連続に途中欠場は許されないが、継続には休暇も許される。ラジオ体操のカードに、日付なんかいらないのだ。途中で休んでも、八割参加したらすべての枡が埋まるようになっていて、残りの二割はボーナスポイント、ぐらいだったらよかったのに。八割参加だって、十分に継続と呼べるだろう。


 これは本当によくわかります。
 僕も同じような「だらしない完璧主義者」というか、こういうスタンプカードも「とりあえず頑張るけれど、一度空白の日ができたら、もうどうでもよくなる」のです。
「完璧にやらなければ」というプレッシャーを強く感じるわりには、「完璧」が崩れてしまうと、「一度休むのも二度休むのも『完璧じゃない』というのは一緒だよな」と、開き直ってしまう。
 習い事も勉強も軌道に乗っているあいだは欠かさずにできるのだけれど、ちょっとつまづくと、「もういいや」と諦めてしまうのです。
 まあでも、多くの人には同じようなところがあるんでしょうね。
 だからこそ、ああいうスタンプカードは続いているし、スマートフォンのゲームでも、「毎日1回ログインするとスタンプが押されるログインボーナス」のシステムが搭載されているものが多いのです。
「習慣化」させるということは、大人に対しても行われ続けているのです。
 あれも、一日空白ができると、もうどうでもよくなるのだよなあ。
 たしかに、「休まないことにこだわりすぎて、それが途切れたときに投げ出してしまうより、時々休みながらでも、長いあいだ続けるほうが大事」なはずなんですよ。
 いまの世の中の大人は、そう考える人のほうが多いのではないでしょうか。
 でも、システムは、旧態依然としたものが、使われ続けているのです。

 女性にとっては「共感する」ところが多いのかもしれませんが、僕にとっては、「考えさせられる」エッセイ集でした。
 

 

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