琥珀色の戯言

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【読書感想】麦ソーダの東京絵日記 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

孤独のグルメ』原作者・久住昌之による最新食エッセイが発売! 吉祥寺、下北沢、渋谷、新宿etc.さまざまな街で、ドラマのミニコーナー「ふらっとQUSUMI」でもおなじみの麦ソーダ (ビール)を飲み、飯を食い、人生に思いを馳せる。東京の街と食と酒を綴った大人の絵日記。


孤独のグルメ』原作者である久住昌之さんの地元・東京を舞台にした食べ歩きエッセイ。

 ドラマ『孤独のグルメ』の本編の後のミニコーナー「ふらっとQUSUMI」を観るたびに、「この人は本当に、ビールを美味しそうに飲むなあ」と思っていたのです。

 この『麦ソーダの東京絵日記』は、食べものについての蘊蓄を語るというよりは、「食の記憶」をきっかけに、これまでの久住さんの半生を振り返る、という要素が強いのです。

 早めに仕事を上がり、ひとりで晩酌をしてみる。
 基本的に、晩酌はしない。若い時からしたことがない。
 ボクは仕事場で文や絵を書き描きしている時は、深夜の1時頃まで仕事をする。
 仕事の途中では、飲まない。飲むと「もういいや」となって、そのあと仕事ができなくなる自分を知っているからだ。
 全部終わってから、飲む。だから、夕飯時刻の晩酌はできない。
 仕事が終わったら、大抵は仕事場の近くの居酒屋に行き、ひとりでお疲れさまのビールを飲む。そのうちいいアイデアが浮かぶとメモする。神経が多少たかぶっていて、喉も渇いているから、最初の一杯は本当においしい。
 飲みながら、手帳を開いて、これからの仕事のスケジュールを見直す。
 それから酒か焼酎に代えて、2、3杯飲む。深夜なので肴はほとんどお通ししか食べない。
 そして、深夜バスやタクシーで帰る。そんなのが日常だ。
 家に帰ったら、寝ているものを起こさないように、顔を洗って歯を磨き、寝間着に着替えてすぐベッドにもぐる。大抵はすぐ寝てしまう。
 晩酌、というものに憧れを抱いたことは一度もない。父親が酒を飲まなかったから、そういうものを知らなかったこともある。
 でも、おいしいものを食べながら、早い時間から人と酒を飲むことが嫌いなわけではない。する機会がなかなかないだけだ。


 あんなにビールを美味しそうに飲む人が、なぜ、『孤独のグルメ』では、主人公・井之頭五郎を下戸(お酒を飲めない人)という設定にしたのだろう?と僕は疑問だったのですが、久住さんの「ひとりの時間を大事にする」「仕事中は飲まない」というスタイルが、あの作品には繁栄されているのかもしれませんね。
 もっとも、創作物の主人公のすべてに作家自身が反映されている、というのも読者の身勝手な想像なわけですが。

 僕自身も、酒そのものは嫌いではないけれど、飲むとそのあと何もできなくなってしまう(本を読んだりゲームをしたりできない)のが嫌で、ほとんど晩酌はしないのです。新型コロナの流行で、外での会食もほとんどなくなって、なおさらお酒の量は減りました。
 コロナのおかげで酒量が増えた、食べることだけが楽しみになった、という人も多いようなのですが。


 赤坂にうどんを食べに行ったときの回より。

 店のオヤジさんは、ボクにビールを出した後、奥の机で、ずっと筆で何か書いていた。
 ここが、東京のど真ん中、港区赤坂というのが、信じられないようだ。2017年とは思いがたいほどだ。店内に流れる時間も、外よりゆっくりしている。
 若いボクも、この不思議な居心地よさが好きで、通っていたんだと思う。
 カップルが入ってきて、いなり寿司3個セットを買っていった。迷わず買っていたから、このおいしさを知っているのだろう。
 油揚げがダブってしまうが、きつねうどんを頼む。500円。
 出てきたものを見て、嘘のようだが、突然思い出した。
 そうそうこれだ。このうどんだ。これをよく食べた。おんなじだ。
 これを見るまで完全に忘れていた。
 刻みネギが、蕎麦屋のように水に晒してない。ラーメン屋のように千切りそのままでのっている。そう、このネギの感じがよかったんだ。当時は晒してないことまで気づかなかった。
 そのネギと出汁の香りが混じって、食欲をそそる。さっそく一口、すする。
 太めの麺がしっかりしている。でも讃岐うどんとは違う。
 わかめとかまぼこものっている。三角のお揚げが2枚。これもちゃんとおいしい。ゆで卵が半分だけのってるのも、いいじゃないか。
 薄い醤油色のつゆがすごくおいしい。出汁の取り方がちゃんとしている気がする。でも「本格的」とかそういう言葉は浮かばない。やんわりしている。そこがまた親しみ深い。
「こんなのでいいんだ、いや、こんなのがいいんだ」と、井之頭五郎に言わせるところだ。
 途中で一味を振ってみたら、風味がパッと変わり、さらに懐かしくて、なんとも言えず、ただすすり、感動した。
 おじちゃんとおばちゃんの言葉少ないやり取りも、ごく真面目な感じで、聞き心地がいい。
 昔の個人店は、みんなこんな感じだった気がする。淡々とした、普段着の誠実さ。


 まさに『孤独のグルメ』の1シーンのよう。
 僕自身がこの店に行く機会はないだろうと思うのですが、読んでいると、僕自身が子どもの頃や若い頃によく行っていた個人経営の飲食店のことが、次々に頭に浮かんできました。たぶん、その多くは、もう閉店してしまっているはずです。
 「本格的」じゃないし、ものすごくおいしいわけじゃないけれど、「これでいいんだ」と静かに納得できる店たち。

 チェーン店か、こだわりの店じゃないと、生き残っていくのは難しい時代ではありますよね。
 現在の僕自身も安心感と近すぎない接客を求めてチェーン店を選びがちなので、わかったようなことは言えないのだけれども。
 
 このエッセイ集のなかで、久住さんは、自身の子ども時代や若い頃の思い出をたくさん書いておられるのですが、読んでいるうちに、僕もいろんな懐かしい食べ物のことを思い出しました。
 近所のスーパーで売っていた揚げたてのコロッケや、家族でよく行った郊外の中華料理店のレバニラ炒め。レバーは好きじゃなかったのに、あれは美味しかったんだよなあ。
 自分はほとんど食べずに、ビールばかり飲み、子どもに焼けた肉を配りまくって嬉しそうにしていた父親の顔。

 僕は東京に住んだことはないし、行ったことがある店はひとつも出てこないのだけれど、読んだ人の記憶の扉を開くような作用があるエッセイ集だと思います。


 久住さんが若かりし頃、楳図かずおさんの「まことちゃんバンド」に参加したときの話も出てきます。

 ビールで乾杯すると、いきなり思い出がフラッシュバックした。
「ここでパスタとかを食べて、地上に挙がったあたりに、古い洋品店があってさ。そしたら、楳図さん、急に思い出したように『あ、そうだ』って言って、店の前に吊るしてある3足1000円のサラリーマンの紺色のナイロン靴下を、3組ぐらい無造作に取って、店の奥に行ったの。一緒にいた年上のまことちゃんバンドのメンバーが『先生、いつもまとめ買いなんですか?』って言ったら、楳図さんなんて言ったと思う?」
「え?」
「『ボク、靴下って、洗わないんです』」
「ええ? どういうことですか」
「だから『先生、履き捨てですか』って聞いたら『そう』って笑うの」
「ええー、それは」
「で、さっきのメンバーが『先生、お金持ちぃ』って言ったら、楳図さん微笑んで『そう、お金持ちなの』って」
「あははは」
「ほんと、笑っちゃった。なんか、圧倒的に世間離れしてるなぁって」


 今みたいに、Amazonで役安の衣料品をまとめて買える時代じゃないことも考えると、確かに「お金もちぃ!」って感じですよね。
 こういう世間離れした人が、才能を活かして、世間離れしたまま生きていける世の中というのは、それはそれで悪くないと思うのです。

 一番おいしいものは、いつもその人の記憶の中にある。
 どんなに食べ歩いても、それよりおいしいものは、結局どこにもないのだ。


 亡くなった僕の母親が僕の大好物だったジャガイモをたくさん入れてつくってくれたカレーライスと同じものは、もう二度と食べることはできないのだな。

 そんなことを、考えずにはいられなくなるエッセイ集です。


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