琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【映画感想】思い出のマーニー ☆☆☆☆

心を閉ざした少女杏奈は、ぜんそくの療養を目的に親戚が生活している海沿いの村にやって来た。そんなある日、彼女の前に誰もいない屋敷の青い窓に閉じ込められた、きれいなブロンドの少女マーニーが姿を見せる。その出会い以来、杏奈の身の回りでは立て続けに奇妙な出来事が起きるようになるが、それは二人だけの秘密だった。


参考リンク:映画『思い出のマーニー』公式サイト


2014年25本目の劇場での鑑賞作品。
月曜日のレイトショーで、観客は30人くらいでした。


これ、女の子どうしの友情物語みたいだし、中年男がひとりで観に行くのはキツイかなあ、なんて思っていたのです。
でも、映画館に行ってみれば、レイトショーだったこともあるのか、「女性ばかり」という雰囲気でもなく、かなり幅広い年代の大人の観客がいて、僕ひとりでもさほど違和感はなくて一安心。
まあ、「ジブリ作品だったらOK」という風潮って、ありますものね。

この世には目に見えない魔法の輪がある。
この人たちはその内側で、私は外側。


なんだか不穏な雰囲気ではじまるこの作品なのですが、僕は序盤の杏奈とその家庭環境をみているのが、けっこうキツかったのです。
「他人とうまくやっていけない」「疎外感と自尊心のバランスを失っている」杏奈。
喘息という病気が、杏奈の孤立を深めていきます。
そして、「心配性」のおばさん。
おばさんは、杏奈の様子に心を痛め、つぶやきます。
「ああ、こんなときに夫はずーっと出張で……それもよくないのよね……」


ごめん、ほんとごめん。
いやほんと、身につまされましたこの場面。
僕は冒頭、12歳の「世の中にうまくフィットできない」杏奈に感情移入しかけていたんですよ。
でも、ここでいきなりドキッとしました。
「いや、今のお前は、杏奈じゃない。この『家のことはほったらかしのお父さん』だろ?」


子どもの頃の僕は、たぶん、杏奈だった。
でも、大人になってみると、苦しんでいる杏奈に何もできない、何もしようとしない「お父さん」になってしまっている。


お父さんにはお父さんの言い分だってあるんですよもちろん。
稼がないと家族が食べていけないんだから。
いや、そんな事情や言い訳は、子どもの目には「見えていない」のだ、と、この物語は大人に告げているのです。


結局、僕はずっと、杏奈だった頃の自分と、杏奈のような子どもを持った親と、その2つの視点から、この『思い出のマーニー』を観ることになりました。
杏奈に感情移入しようとする自分と、「じゃあ、お前は自分の息子のことを、ちゃんとしてやっているのか?」と責める自分がいる。


これはたぶん、宮崎駿監督にはつくれなかった作品だと思います。
岡田斗司夫さんが「『風立ちぬ』を語る〜宮崎駿スタジオジブリ、その軌跡と未来〜」という新書のなかで、こんな「宮崎家の家庭環境」を紹介しています。

 宮崎駿宮崎吾朗の親子関係は並ではありません。
 宮崎吾朗は母親、つまり宮崎駿監督の奥さんから、


「あなたはお父さんのようになってはいけない、あの人は何ひとつ人間らしいこと、父親らしいことをあなたにしてくれなかった。あなたはそんな人間、アニメ屋になってはいけない」


 と言われ続けて育ちました。
 だから、宮崎吾朗も、


「僕は子どもの頃から何ひとつ親らしいことを、宮崎駿さんにしてもらったことはないです」


 とブログに書いています。
 宮崎駿監督は、ずっと家に帰らずにアニメを作り続けていた人間です。だから、彼が家族から赦されることはないかもしれません。でも、映画の中で、本来ならありえない赦しが主人公に与えられると、僕らはなぜか感動してしまいます。
 何も僕は、「宮崎駿はこんなにひどい人間だ」と言いたいわけではありません。僕らだって何かを成し遂げようとしたとき、絶対に犠牲を払っているはずです。「夢を追いかけよう」「家族を食わせよう」、そんな当たり前の望みを叶えるために誰かを犠牲にしなければならないのが、この世界のあり方なんです。
 あらゆる人の営みは、犠牲の上に成立しています。だからこそ、せめて綺麗な夢を見せたい。それが、『風立ちぬ』のラストシーンで宮崎駿監督が伝えようとしていることではないでしょうか。


 これを読むと、宮崎駿という「家族を顧みず、アニメーションにすべてを捧げた天才」には、『思い出のマーニー』を撮れなかったのではないか、という気がするのです。
 宮崎駿もまた「出張ばかりで、子どものことはほったらかしのお父さん」=杏奈やマーニーの父親、だったのだから。
風立ちぬ』で、苦悩する堀越二郎は描けても、『思い出のマーニー』の、娘からみた「家庭に存在しようとすらしない父親」を描く勇気は出なかったのではないかなあ。
もちろん、『マーニー』では、そういう父親たちも「赦されている」のだと思います。
ただ、それは、女性たちの物語に比べると、あまりにも希薄で、作中でも無視されているのです。
「あなたは、子どもからみたら、こんな父親なんですよ」
宮崎駿さんには、ここまで残酷に「父親を切り捨てる物語」は描けなかったのではないだろうか。
だって、まがりなりにも「父親」なんだから。


作品としては、静謐で、優しくて、細かいキャラクターの動きまで楽しめる良作でした。
杏奈が手紙を出しにきた郵便局で、地元の知らない人がそこにやってくるのを見て、さりげなく、かつ足早に立ち去る場面なんて、「そうそう、知らない人と会うのがめんどくさい感じ」って、こうなんだよなあ……と、納得してしまいました。
自分を認識されるのが嫌で、でも、他人に当てつけがましく行動してはいけない、という小さな良心もあって。


お人形さんのようなマーニーの立ち姿が美しい。
夜、ふたりでボートを漕いでいる様子は、まるで絵本の1ページのよう。


主人公・杏奈の「周囲にうまく溶け込めない感じ」は、僕にとってもすごく身に覚えがあるので、ヒリヒリしながら観ていました。
 自分ではうまくやれている実感がないし、おせっかいな周囲にもどかしさを抱いているけれど、最低限の挨拶はできる(してしまう)し、大人の言うことに表立って反発するほどの勇気もない。
「大人の世話にはなりたくない」けれど、「いまの自分の力では、何もできない」こともわかってしまっている。
だから、妥協するしかない、と自分に言い聞かせている。
そして、そんなふうに「うまくやろうとしてしまう自分が嫌い」。


その一方で、僕には杏奈ほどの行動力はなかったなあ、とも感じました。
どんなに不快なヤツにだって、「ふとっちょブタ」とか言えなかったよ……
というか、あの子だって、ちょっとおせっかいでうっとうしかったけれど、そんな爆弾を投げつけられるほど悪いことはしてないだろうに……
ある意味、「自分だけが傷ついていると思い込んでいる人間の残酷さ」を描いている作品、とも言えるのです。
ああいう「主人公の理不尽な悪意」を、ありのままに描いたジブリ作品って、他にあっただろうか。


なんて御都合主義な話なんだ!とも思うし、終盤の「説明ラッシュ」には、やや過保護な印象も受けたのだけれども、最後は涙をこっそり拭いながら観ていました。
この作品には「曇りのない幸福」はほとんど出てこないし(杏奈の療養先の夫婦だけは、とても幸福そうに見えたけれど)、杏奈の客観的な状況は、たぶん、そんなに変わってはいません。
出てくるエピソードは、後半になればなるほど悲惨な話が多くなるのに、杏奈は、明らかに「回復」していくのです。
人はみんなそれぞれ事情は違っても、同じくらい不幸で、そして、同じくらい幸福で。
そんななかで、お互いに愛したり、愛されたりしています。
残念なことに、うまく伝わらない、うまく伝えることができないことが多いのだけれども。
 

でも、人は「誰かを愛すること、そして、誰かに愛されること」によって、支えられている。
あなたは愛される、愛されている。
だから、私と同じあやまちを、繰り返さないでほしい。
心を閉ざさず、あなたを愛している人たちを、人生の良いところを、見つけてほしい。
これは、そんな「想い」を、ようやく伝えることができた物語。
 

「もっと上手く漕げると思ってた」
「私も、そう思ってた」


 僕も、自分でやってみるまで、そう思っていたよ。こんなに自分がヘタクソだなんて。
 他人が、人生というボートを漕いでいるのを見ているときは、なんであんな簡単なことが、うまくできないんだろう?って、ずっと思っていたのにね。


思い出のマーニー』、なかなか良い映画でした。
ただ、この作品の「ほろ苦い甘さ」を理解するのには、それなりの年輪が必要なのかもしれません。
息子が観たら、サイロでの嵐のシーンで「怖い!帰ろう!」って言いそうだし。
まあ、「ホラー映画」として観るのもまた一興か、夏だしね。



 以下、ちょっとだけネタバレ感想です。映画観賞後に読んでいただけるとありがたいです。



 本当にネタバレですよ。


「マーニー」の正体って、何なのか?
素直に解釈するのであれば、杏奈のおばあちゃんの幽霊ですよね、きっと。
孫である杏奈を置いて病死してしまったおばあちゃんが、杏奈を励ますため(あるいは、杏奈に赦しを請うため)にやってきた。
(となると、あの杏奈が抱えていた人形は何か?とも思うのですけど)
僕は観ながら、マーニーは、杏奈の妄想の世界の住人ではないか?と考えていたのです。
子どもの頃、「架空の友達」をつくりあげて、想像の世界で現実を忘れる、っていうのは、そんなに珍しいことではありません。
僕もそういうことをやっていた記憶があります。
だから、「マーニーは、すべての生きづらい子どもの心にいて、友達になってくれる存在」として描かれているのだ、と。
銀河鉄道999』の、メーテルみたいなものです。
誰の心にも、「マーニー」はいる。


ただ、この作品の終盤の「解説」からすると、マーニーというのは、「杏奈だけの守護霊」みたいな感じになってしまうんですよね。
それによって、杏奈は「家族愛」を取り戻すことができた、ということなのですが、それだと、この物語の「生きづらい子どもたちへの普遍性」みたいなものが、かなり失われてしまうような気がします。
「マーニーの正体」は、たしかに気にはなるのだけれども、ここまでクリアに「種明かし」をしてしまうことは、かえってマイナスなのかもしれないなあ、と、ちょっと思いました。
この映画を観ようと観るまいと、子どもたちは、「自分にとってのマーニー」を、ずっと紡いでいくのだろうけど。

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