琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

『文章が上手い人の特徴』を書いた増田さんへ


文章が上手い人の特徴(はてな匿名ダイアリー)
↑のエントリを読んで。

たぶん私は「素材」が重要だと思ってる。それ以外の努力を軽く見てる。

書いてることの内容が良ければ、あとは読み手が頑張ればいいじゃん、と思ってる。

読み手のために頑張るってバカバカしいと思ってる。

「うまく表現できれば気持ちいだろうな」とかなんて考えたことがない。

「自分の思い通りに書けると安心だな」とか考えたことがない。

「素材」の良さって、やっぱりすごい武器ですよね。多少「粗い」文章でも、テーマが面白ければ、読んでいて引き込まれるのは事実です。
ただ、いくら「素材」がよくても、「素材の味を活かす」ためは、料理人の技術が問われます。極上の素材であれば、拙い料理人でもそれなりに美味しい料理をつくれるとしても、常に極上の素材ばかりを仕入れられるとは限りません。
「実体験ケータイ小説で一発当てる!」というのならともかく、ある程度継続して店を続けていくためには、「それなりの素材しか仕入れられないときでも、それをうまく料理する技術」や「他の人が目もくれなかった素材を見つけ出す能力」が必要なのです。
僕も以前は、「自分には書くべきことがないから書けないんだ」と思い込んでいました。

でも、「書くべきこと」なんて、自然に頭に浮かんでくるものじゃないし、そんな珍しい体験ばっかりしている人間なんて、めったにいない。たとえ「作家」であっても(ただ、「作家」になると、「ちょっと変わった日常」を送れるのも事実なんだろうな、とも思いますが)。
もちろん、西村京太郎さんみたいに「何十種類もの職業経験を活かしている作家」というのもいるのだけれども、乙一さんは16歳で『夏と花火と私の死体』を書いたし、綿矢りささんは、17歳で『インストール』を書きました。
書ける人は、花火大会の記憶とか、高校でオタクな同級生と接した経験だけからでも「書ける」のです。
「書くことがない」なんていっているうちに、たぶん、僕たちは年とって死んじゃうんだよ。

僕は「読むこと」も大好きな人間なので、あえて断言しておきますが、この世界には「読み手が努力しなくても、サービス精神旺盛な書き手が愉しませてくれる文章」がたくさんあるのです。そして、人は自分が思っているほど「特別な経験」なんてしていない場合がほとんど。「海外赴任体験」の本を出そうとした人がある出版社に原稿を持ち込んだところ「いや、あなたが有名人ならともかく、そういう『体験談』は、もう有り余っているんです」と言われたそうです。「普通の人」にとっての「特別な体験」というのは、商業文章の世界では「ごくありふれたもの」であることがほとんどなのです。
いやほんと、「素材」で勝負するのは、「技術」で勝負するよりはるかに厳しい。

文章の世界に触れれば触れるほど、「オリジナルの文章」「過去の歴史から独立した文章」なんて夢物語だということを実感します。
恩田陸さんは、インタビューなどで何度も「いまの世の中にある作品のほとんどすべてが過去の作品の『焼き直し』なのだ」ということを仰っておられます。
いまの世の中で「誰も使ったことがない素材」を探すのは、「いまの地球上に新大陸を発見すること」と同じくらい難しい。
「目新しい素材」を延々と考え続けるより、『カラマーゾフの兄弟』をじっくり読んだほうが、よっぽど「ためになる」のではないかと。


僕はまだまだ修行の身なので(「日暮れて道遠し、って言葉を最近ずっと噛み締めてる)、偉そうなことは書けないのですが、もしかしたら、こういう人たちへのちょっとしたヒントになるんじゃないかと思った文章を二つ挙げておきます。

劇作家・永井愛さんとの対談での米原さんの発言。

ロストロポービッチというロシアのチェロ奏者はかつて記者会見で、「子供たちが美しい音楽を聴き分けられるようにするためにはどんな教育をしたらいいのか」と質問されてこう答えたんです。「音楽においては美しい音も汚い音もない。大切なのは伝えたいメッセージを最も的確に伝えられる音だ。そのメッセージにふさわしい音、それがいい音だ」と。まさに言葉もそうで、言葉にとっていちばん大事なことは、美しいことよりも、最も的確に伝えたいメッセージを表しているかどうかです。この通訳をしながらわたしはそう思いました。

『脚本家―ドラマを書くという仕事―』(中園健司著・西日本新聞社)より。

橋本忍(1918〜)は、日本を代表する偉大な脚本家(シナリオライター)です。
 映画『羅生門』『七人の侍』『生きる』『白い巨塔』『砂の器』、そしてテレビドラマでは『私は貝になりたい』など、日本の映画史、テレビドラマ史に刻み込まれる名作を書いた脚本家です。その橋本忍のお弟子さんである国弘威雄が『橋本忍 人とシナリオ』に寄せて書いた文章にその記述があります。
 師匠に何度も何度も同じシーンを書かされ、もう一字も書けなくなった時、こう言われたそうです。
「どうして書けないんだ。いや、大体、君はそこのシーンをうまく書こうと思うから、行き詰まってしまうんだ。うまく書こうと思うな。上手に書こうと思うな。もっと平凡な、単純な、幼稚でもいい、子供の作文のような形でもいいから、とにかくそのシーンを書いてごらん。それで形ができたら、それを直して、更に直して行けばいい」
 うまく書こうと思うから、(その意識が強すぎるから)行き詰まってしまうんだ、というのは、私にとっても目から鱗のような言葉でした。
 橋本忍は別なところで次のような文章も書いているそうです。
「書いている途中で行き詰まるということは、結局どういうことであったのか。いや、一本一本の作品にどうしてあんなに喘ぎ苦しんだのだろうか。それは要するに、書きながら自分の書いているものを、ああでもないこうでもないと強く批判し過ぎたからである。創造力を上回る批判力の作用が作品の進行に物凄いブレーキをかけていたからである」

小学生の作文で十分だから、とにかく書いてみること。あまり自分の文章を客観的に「評価」しようとしないこと。

私はライフハックとか読んでも「うまい人はこうするんだ、へー」くらいにしか思わない。

絶対に「じゃあ試しに実践してみよう」とか思わない。

やる気があったら、「試しにやってみた」とかで記事を書くしかないのに、

せいぜいはてブして「参考になったわー」で終わり。

そこまでわかっているのなら、「試しにやってみて」記事を書いてみればいい。
それだけで、世界はかなり変わってくるはず。

そして、もうひとつ大事だと僕がWEBで書いてみて感じたのは、「投げかけられた感想をとりあえず素直に聞くこと」。
けっこう厳しいことを書かれますが、少なくとも「誰かに感想や意見を書かせることができた」というのは、ひとつの「前進」です。
そういう意味では、この増田さんは、このエントリを書いたことで、確実に「上手くなった」のではないかと。
街角で詩の本を売っていても、誰も読んではくれないでしょう。
でも、WEBなら、運がよければ、「アンケートに回答していただいた方にプレゼント!」なんてことをしなくても、こんなに「感想」をもらえるのです。

言いなりになる必要はないと思うのですよ。いろんなバイアスがかかったコメントもあるから。
「そういうふうに感じた人がいる」という事実をそのまま受け入れて、改善すべきであれば、少し気をつけてみる。どうしても受け入れられなければ、「自分のスタイル」を貫く。
ちなみに最近あまり例え話をしなくなったのは、僕にとってのひとつの「改革」です。それが良い方向なのかどうかは、自分でもよくわからないんだけど。

あと、「みんなに愛される文章」を望んではいけません。それは、「みんなに読み流されるだけの文章」にしかならないから。

最後にもう1回。

うまく書こうと思うな。上手に書こうと思うな。もっと平凡な、単純な、幼稚でもいい、子供の作文のような形でもいいから、とにかくそのシーンを書いてごらん。

そうそう、これはいままで書き続けてきての個人的な見解なのですが、「最後の最後で差がつく」のは、やっぱり、書き手の「熱意」みたいなものじゃないかな、という気がします。


参考リンク:WEBでの文章の書き方・リターンズ(琥珀色の戯言)



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