琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

テンパリスト、「クリエイター」を語る。


「新しい物語」の絶滅 - 琥珀色の戯言
↑のエントリには、予想外の多くの反応をいただき、興味深く読ませていただきました。

yuki-esupure 世の中に永沢さんしかいなかったら、30年残る文学なんて存在しなかった。

↑のブックマークコメントなどは、たしかにそうだな、と。
みんながブックオフでしか本を買わなくなったら新刊書がいつか絶滅してしまうように、「新しいもの」を率先して味見する人がいなければ、「定番」は生まれません。
そして、このブログを読んでいただいていれば、僕も「永沢さんタイプ」ではなくて、「話題の新刊に一目散に飛びついてしまうミーハーな本読み」なのです、基本的に。
その一方で、いろんな本を読めば読むほど、「書いてみたい側」として、「オリジナリティ」とは? 「『新しい物語』とは?」という疑問(そして、実際に書いていくうえでの行き詰まり)が積み重なってきたため、ああいう意見を表明してみました。

gomis 例えば恩田さんが新作書いたとして、それをも楽しんで読む事は出来ないのでしょうか?

いや、そういうふうに僕個人の嗜好について問いたい気持ちもわからなくはないんですが、正直、そういうふうに「個人の好み」の話にされてしまうと、ちょっと違うのかな、と。
僕はもちろん恩田さんの新作を楽しんで読んでますよ。僕の本読みとしての実力では、恩田さんの作品の「元ネタ」をすぐに見きわめるなんてことは不可能だし、そもそも、あのエントリは、「いまの時代に、本当に『新しい物語』は創造しうるのか?」という問いかけであって、「新しくないものは、楽しくない」という話じゃないので。

すみません、ブックマークコメントに反応するといろいろと大変なのですが、このエントリに関しては、さまざまなリアクションに僕も楽しませていただいた、ということだけはお伝えしておきます。


閑話休題
昨日、『CONTINUE』vol.44(太田出版)を読んでいたのですが、吉田豪掟ポルシェさんの対談記事『電池以下』のゲストが、漫画家・東村アキコさんだったんですよね。
(今号の『CONTINUE』は、かなりお買い得なのではないかと思います。この対談のほかにも、映画『ヤッターマン』の特集や『プラレス3四郎』の原作者・牛次郎さんのインタビュー、『ゲーム・オブ・ザ・イヤー』と盛りだくさん!)
そのなかに、こんな話が出てきました。

掟ポルシェ前に、『ぶ〜け』世代だから、きっと松苗あけみ先生の『純情クレイジーフルーツ』とか、あの辺もキャラクターの元にしてるんじゃないかなって言ったら、まったくその通りで、そこも引っ掛かられて(笑)。


東村アキコそうそうそう。鋭いんですよ。ありえないぐらい。編集さんでもわかんないようなことを言ってくるから。掟さん以外に気付かれたことないと思うんで。


掟:初期は松苗テイストでしたからね。


東村:だって私、いまだに松苗先生の作品を横に置いて描いてますよ(あっさりと)。


吉田豪まだやってるんですか、それ!


東村:そうですよ、全然。私、アシスタントさんとかに「どうしたら一人立ちできますか?」みたいに聞かれたら、「とくかくパクらないとダメ」としか言わないですから。


吉田:ということは、東村先生のマンガを横に置いてマンガを描いてもいいんですか?


東村:全然いい! どうぞ! 私ホンットに「駿からパクれ」とか言ってますから。いいとこから盗れ、みたいな。でも宮崎駿が『ナウシカ』の頃のインタビュー記事で、「とにかく僕たちの仕事は先代から受け継いだ面白いものを、形を組み替えて次の世代に渡すことだから」みたいなことを言ってて。だから私のやってたことは別に普通なんだなって思ったんで。


吉田:宮崎駿も結構パクッてますからね。


東村:そうですよね。クリエイターってみんなゼロから作り上げたって読み手の人は思いがちなんだけど、何かの組み合わせを変えたりすることがクリエイトすることだと思うんですよ。だから最近一生懸命いま流行ってる少女マンガを買ってきて、コマ割りをメチャメチャ見て、「じゃあこのページは……よし、これでいってみよう!」みたいな感じで。アシスタントさんにも同人誌とか持ってきてもらって、コマ割り勉強して。

ママはテンパリスト』も絶好調(うちでも話題になってます)の東村アキコ先生の、まさに「赤裸々な」インタビュー。
ここまで正直に言っちゃう人は珍しいとは思うのですが、このあいだの恩田陸さんのお話といい、「ゼロから新しい物語をつくりだすことは、それを真摯にやろうとするほど、その難しさにぶち当たって何もできなくなる」ものなのかもしれません。
宮崎駿監督も「僕たちの仕事は先代から受け継いだ面白いものを、形を組み替えて次の世代に渡すこと」だと仰っておられたようですし。

前のエントリを書いたあと、僕はこんなことを考えたんですよ。

恩田陸:私は新しいことやってますという人は嫌いなんです。それはあなたが知らないだけで、絶対誰かが過去にやってるんだからと。以前、美内すずえさんのインタビューをTVで見ていたら、『ガラスの仮面』は映画の『王将』が下敷きになっていると。で、今なぜ自分は漫画を描いているかというと、小さい頃、一生懸命夢中になって観たり読んだりしたストーリーを追体験したいからだと。それは、すごく共感したんですよね。

これを読んで、美内さんに「『ガラスの仮面』は、『王将』のパクリ」だと言うことも可能でしょう。
でも、いまの時代に生きる人たち(とくに若者)にとっては、いくら「話の骨組みが同じ」でも、『王将』はちょっと、感情移入しにくい話なのではないか、と感じます。それに比べると『ガラスの仮面』はスッと入ってくる(いや、『ガラスの仮面』も、いまから入ってくる人にとっては、かなり厳しいものになりつつあるかもしれないけど)。
結局のところ、どんなに優れた「王道」の物語であっても、「骨組み」だけでは人は楽しめないし、それを活かすための時代に合った「肉付け」が必要だということなのでしょう。
『王将』を『ガラスの仮面』にできる人は、ごく一握りの「クリエイター」だけなのです。
そういう発想でいけば、「クリエイターとして食べていく」のは、「全く新しい骨組みをつくろうとする」よりも、少しラクになるのかもしれません。

でもまあ、その一方で、やっぱり「どこかに『新しいもの』があるのではないか、という希望は捨てきれない」のも事実なのですが……

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