琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】渦 妹背山婦女庭訓 魂結び ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
第161回直木賞受賞作。

選考委員激賞!

虚構と現実が反転する恐ろしさまで描き切った傑作! ──桐野夏生

いくつもの人生が渦を巻き、響き合って、小説宇宙を作り上げている。──髙村薫氏

虚実の渦を作り出した、もう一人の近松がいた──

「妹背山婦女庭訓」や「本朝廿四孝」などを生んだ
人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯を描いた比類なき名作!

江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章(のちの半二)。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、竹本座に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
父からもらった近松門左衛門の硯に導かれるように物書きの世界に入ったが、
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった……。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した奇蹟の芸術小説。

筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──


 第161回直木賞受賞作。
 購入してからしばらく、僕はこの小説を「積んで」いたのです。
 直木賞を獲ったから読んでみようとは思ったものの、題材である人形浄瑠璃にそんなに興味があるわけでもないし、なんだか敷居が高そうだよな……って。
 手元に読みたい本がなくなって、渋々、という感じでページをめくりはじめてみたのです。
 近松半二……門左衛門なら知っているけど、よく知らない人だし、こういう歴史上の人物を描いた作品、とくに昔の人を題材にしたものは、読んでいて「この人物の言葉や行動って、どこまで本当で、どこからが作者の創作なんだろう、たぶん、ほとんど創作だろうな」という気分になってくるのです。
 架空の人物であれば、そういうことを考えずに済むのだけれども。

 学者の家に生まれ、ひと通りの学問を身につけたにもかかわらず、父親の浄瑠璃好きの影響をもろに受けてしまい、浄瑠璃の、芝居の世界でしか生きられなくなってしまった半二は、同じような境遇で芝居にとりつかれてしまった正三とお互いに切磋琢磨しながら、人形浄瑠璃と歌舞伎の世界でたくさんの脚本を書き、新しい仕掛けを生み出していきます。
 
 この小説を読んでいると、近松半二の人生や彼と深く関わってきた人たちの人生が、歴史年表でも眺めるかのように、さらりと書かれていることに、慣れるまでけっこう違和感があったのです。
 Amazonで読んだ「感想」のなかに「ここまで浄瑠璃にとりつかれた男の話のわりには、何が浄瑠璃の魅力なのか、読んでいてもあまり伝わってこない」というのがありました。
 言われてみれば、そうだよなあ。

 でも、自分自身のこれまでの体験と照らし合わせてみると、人というのは、自分の人生を変えてしまうくらい好きになるものに関しては、その理由を言葉にするのはかえって難しいというか、「好きなものは好き、としか言いようがない」のではないか。と思うんですよ。
 だから、この物語が「そうなるのが必然であるかのように」淡々と書かれていて、無理矢理感動的なシーンを入れようとしないのは、すごく誠実に感じます。

 本当に、いろんな人が、淡々と生きて、死んでいく。
 その一方で、作品が生まれる場面については、言葉に言葉を重ねていて、読んでいる僕も物語の渦の中に巻き込まれていくような印象を受けました。
 これはたぶん、「物語に奉仕することに無上の喜びを抱く人間たちの物語」なんですよね。
 そういう意味では、この作品が直木賞を受賞したのは、「映画界をネタにした映画がアカデミー作品賞を獲りやすい」みたいな面もあるのではないかと。
 伝統芸能とか小説とか研究とか、「長年にわたって多くの人がその流れをつくりあげてきた世界に少しでも関わり、自分も何かを生み出そうと苦しんだことがある人」にとっては、一緒に渦に巻き込まれていくこと間違いなし、です。
 
 近松半二という人が活躍していたのが、近松門左衛門という天才によって頂点を極めたあと、人間が演じる歌舞伎に押され、道頓堀での肩身が狭くなってくる人形浄瑠璃というのは、なんだかとてもせつないのです。
 どんなに才能があっても、努力をしても、「場と機会」に恵まれないと、なかなかうまくいかない。
 それでも、近松半二は「人形浄瑠璃」に支えられ、のちには、人形浄瑠璃を支える存在として生きたのです。
 判官贔屓、なのだろうけど、「滅びゆくものや斜陽になっているものに殉じる人間」に、僕は惹かれます。


 僕はこの小説を読みながら、けっこう前に読んだ小説家・恩田陸さんの言葉を思い出しました。

(「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年10月号の恩田陸さんと鴻上尚史さんの対談記事より)


鴻上:たぶん、チェーホフは役者も選ぶんだよね。小津さんの映画と同じで。シェイクスピアは少々下手な役者がやってもそこそこ観られるものになるんだけど、小津作品もチェーホフも、名優たちがやんないと目も当てられないから(笑)。あ、今その話をしながら、今回ぜひ聞きたかったことを思い出したんだけど、恩田さんって、物語ることが好きなの?


恩田:好きというか、ストーリーというものに興味があるというか……。私には、ストーリーにオリジナルなんかないという持説があって。つまり、人間が聞いて気持ちいいストーリーというのは、ずっと昔からいくつかパターンが決まってて、それを演出を変えてやってるだけだと。でも、昔聞いて面白いと思ったストーリーは今でもやっぱり面白い。それが不思議で面白いから小説を書き続けている、という感じなんですよね。


鴻上:つまり、同じパターンなんだけど演出を変えるというところに今の作家の使命があると?


恩田:そうですね。だから、私は新しいことやってますという人は嫌いなんです。それはあなたが知らないだけで、絶対誰かが過去にやってるんだからと。以前、美内すずえさんのインタビューをTVで見ていたら、『ガラスの仮面』は映画の『王将』が下敷きになっていると。で、今なぜ自分は漫画を描いているかというと、小さい頃、一生懸命夢中になって観たり読んだりしたストーリーを追体験したいからだと。それは、すごく共感したんですよね。


 15年前くらいの対談なので、いまも恩田さんが同じ考えかどうかはわからないのですが、新しい物語を創ろうとすればするほど、「絶対誰かが過去にやっている」という壁にぶつかるはずです。
 そんな中で、「先人が遺してくれたものを踏まえて、より良い、面白いものにしていく」「あるジャンル全体を少しずつ進化させていく」というのが「その時代の創作者の使命」なのかもしれません。
 その大きな「渦」に巻き込まれて、渦の一部になるというのは、きっと、幸福でもあり、人ひとりの力の限界を感じるところでもあるのでしょう。

 この小説が好きだという人とは、気が合いそうだな、と思うくらい、僕はハマってしまいました。
 近松半二の作品も、なんらかの形で観てみます。


戦友の恋 (角川文庫)

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ピエタ

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