琥珀色の戯言

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アキレスと亀 ☆☆☆☆


アキレスと亀 [DVD]

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あらすじ: 絵を描くのが大好きな少年・真知寿(吉岡澪皇)は、自宅を訪れた画家に自分が描いた絵をほめられて、赤いベレー帽をもらう。真知寿は、その日から画家になることを夢見て毎日のように絵を描くようになる。そんなある日、父親中尾彬)の会社が突然倒産して両親が立て続けに自殺を図ってしまい、真知寿の人生は暗転する。(シネマトゥデイ

なんというか、感想を言葉にしにくい映画でした。
「芸術」にとりつかれてしまったばかりに、売れない絵を描き続ける主人公・真知寿。
彼は「自分のアート」を実現するためにさまざまな試みをするのですが、あるときは「もっと基礎的な技術を学べ」と言われ、またあるときは「そんなありきたりのものじゃダメだ、売れない」と切り捨てられてしまいます。
「描きたい作品を描く」ことよりも、「人がやらないことをやる」ほうにベクトルが向かっていった挙句、真知寿は多くのものを失い、それでも、「アート」の魔力から逃れられない。

北野監督は、自らも「アーティスト」でありながら、こんな残酷な作品をよく撮ったなあ、と僕は感じずにはいられませんでした。
数少ない「成功した芸術家」のひとりである北野武が、「才能も運もないのに、『芸術家でいること』を諦めることができずにボロボロになっていく男」を容赦なく描くというのは、本当に「えげつない」。
おそらく、北野監督自身は、真知寿を笑いものにしようというのではなく、こういう「残酷な現実」を描きたかっただけなのでしょう。
現代アートって、「言ったもの勝ち」というか、「作品そのものよりも、その作品をうまく説明できることが評価される」ような世界。
この映画のなかの真知寿の作品は「売れそうもない」ものだけれど、この作品で描かれる真知寿の人生そのものは、けっこう「アート」のように僕には感じられます。そこがまた残酷なんだけど。

僕が読んだネット上の感想には「夫婦愛の話」と解釈しているものが多かったのですが、僕はこの映画、シンプルな「青い鳥」の話じゃないと思うし、真知寿はそれでもやっぱり「描く」はずです。
北野武監督は、この作品に関して、『DIME』でのインタビューでこんなことを仰っておられます。
(参考リンク:北野武監督「下町だったらさ、いいんだよ、お前バカなんだからで終わるから」(活字中毒R。)

「いまの時代は夢を持っているやつのほうが、なんの夢もないやつよりよっぽどいいとされてるじゃない。だって、夢を持っているんだからって。でも、現実は同じなんだよ。いま何もやっていないことに変わりはない。それなのに、いまの時代は強制的に夢を持たせようとし出したから、夢のないやつがそれを社会のせいにして、ナイフで刺しちゃったりするでしょう。でも、夢なんて持たなくていいんだって言わなきゃいけないんだと思うよ。下町だったらさ、いいんだよ、お前バカなんだからで終わるから(笑い)。別に、人に誇れるものなんてなくていいんだよね。ないやつだっているし、ない自由だってあると思うよ」

北野監督には、たしかにこういう「人生観」「教育観」があるのはまちがいありません。
でも、監督はこの発言のあと、「まあ、いくらそう俺が言っても、アートにとりつかれるヤツはとりつかれちゃうんだけどさ」っていう言葉を呑み込んでいるような気がします。
北野武と真知寿のあいだには、「超えられない壁」があるのか、それとも、「ちょっとしたコツをつかめるかどうか」なのか?
表現者であること」を志して生きた人間の「末路」を「表現者を理解できない」人間が笑うことができるのか?
「ほとんどの人が挫折してしまうから」という理由で、子供を「諦めさせる」ことが正解なのか?

僕は正直、何かをやろうとしていた人間が、年をとって死ぬときになって、「やっぱり平凡な人生がいちばんだよ」なんて「達観」してしまうのが、この年になってもなんとなく納得いかないところがあるんです。
それって、「自分にそう言い聞かせているだけ」なんじゃないか、って。
ただ、家族に迷惑かけてまでやるのは「狂気の沙汰」だよなあやっぱり。ひとりでやるならともかく。この映画を観ると、それを痛感させられます。そういうのを容赦なく描く北野監督は、ものすごく残酷で、優しい人なのかもしれません。
僕はこの映画、自分の子供が「表現者病」にかかりそうな中高生くらいのときに観てくれたらいいなあ、と思う。

それにしても、「諦められる人間」と「諦められない人間」のどちらが「幸せ」なんだろうね……

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