琥珀色の戯言

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ロボコップ ☆☆☆



あらすじ: 2028年、アメリカのデトロイト。巨大企業オムニコープ社がロボットテクノロジーを牛耳っていた。警官のアレックス(ジョエル・キナマン)は愛する家族と幸せな日々を過ごしていたが、ある日、車の爆破に巻き込まれる。かろうじて命を取り留めたアレックスは、オムニコープ社の最先端のテクノロジーによってロボコップとして生まれ変わり……。


参考リンク:映画『ロボコップ』公式サイト


2014年11本目の劇場での鑑賞作品。
平日19時からの回で、観客は僕も含めて3人でした。


去年の年末に、ふと懐かしくなって、1987年公開のポール・ヴァーホーヴェン監督版の『ロボコップ』をDVDで観ました。
僕の記憶のなかの『ロボコップ』って、キャラクターデザインが『宇宙刑事ギャバン』の影響を受けているということもあり、「シンプルなSFアクション映画」だったのです。
25年ぶりくらいに観た『ロボコップ』、正直、驚きました。
あれ……こんなにハードというか、グロテスクな場面満載の映画だったっけ……って。
ずっと昔に一度観ているはずなのに、いつのまにか『ロボコップ』を『ギャバン』みたいな日本の特撮ヒーローに置き換えてしまっていたんですね。
いや、もちろんヴァーホーヴェン版の『ロボコップ』もメタリックSFヒーローアクション、なのですが、観ていて、精神的にキツイ場面が多くて。
主人公・マーフィーを悪者たちが、大勢でなぶりものにするシーンとか、相棒・ルイスがかなり酷い目にあうところとか……
ロボコップが悪党どもを「成敗」するシーンにも、うへーっ、って顔をしかめてしまいそうなのが少なからずあるのです。
ほんと、「正視できないレベルの残虐シーン」満載。
血がたくさん出るとかいうよりも、観ているだけで精神的に追い詰められる場面も多いのです。
まあ、考えてみれば、あのヴァーホーヴェン監督が、わかりやすくて綺麗なヒーローアクションとか撮らないだろ、って感じなのですが……


このリメイク版『ロボコップ』では、原作の「残虐シーン」の面影はありません。
マーフィーも、大勢の悪党にもてあそばれて傷つくのではあく、爆発に巻き込まれて生死の境をさまよいますし、敵のやっつけかたも、銃声が派手な割に、あまり「血生臭さ」を感じません。
パーツを装着する前のマーフィーの姿は、グロテスクといえばグロテスクだけど、むしろシュールな印象で、ちょっと笑ってしまいそうです。
派手なアクションはあるし、夜の闇を活かして、ロボコップのメタリックなボディを幻想的にみせたりもしているのですが、なんというか「滅菌されてしまった」ような気がしました。
前の『ロボコップ』って、シンプルなSFヒーローアクションというよりは、メカの面白さと「血のにおい」みたいなのがブレンドされて、強いインパクトを残した作品だったのかな、と。
いろいろな事情もあって、というか、今のハリウッド映画では、ヴァーホーヴェン版のような「観ていて精神的にキツくなるような暴力描写」は許されていないのかもしれませんが、あの場面を見せられているからこそ、「悪党どもへの怒り」を共有することができたのも確か。
今回の悪いやつらは、なんかこう、観客の「怒りゲージ」が溜まっていない分でか、やっつけても、あんまりスッキリしないのです。
オムニ社のやり方にはもちろん共感はできないけれど、その一方で、「マーフィー個人の事情はさておき、オムニ社がやろうとしていることは、間違っていないんじゃないか?」とも思うわけですよ。
ヴァーホーヴェン版は「オムニ社の悪党ども、くたばれ!」って感じだったのですけど、今回は「この人たちはロクな人間じゃないけど、考えかたには一理あるな、と。
だってさ、「ロボット警官」のほうが、明らかに能力がありそうだし、平和維持にもつながりそうなのだもの。人間の警官の犠牲も、劇的に減らせるはずだし。


ただ、「悪者の『悪さ』がわかりにくい」というのは、実は、この新しい『ロボコップ』のテーマでもあるのかな、とも感じたのです。
1987年版『ロボコップ』の「悪の黒幕」は。大企業の利益優先主義に伴う汚職や犯罪だったわけですが、今作では「公共の福祉の名の元に、個人の自由や権利を踏みつぶす企業倫理」が、最大の敵なのです。
あのサンデル教授が、著書のなかで、思考実験として、「ある町で、ひとりの無実の人間の自由を奪い、地下牢に閉じ込めておけば、街全体の平和が確保できるとしたら、彼を拘束することは妥当だろうか?」と読者に問いかけていたのを思い出しました。


もし、この新しい『ロボコップ』のような状況が現実に起こったとしたら、マーフィーの身近な人以外は「ロボット刑事による平和を実現すること」に賛成するのではないかなあ。
このグローバル企業の時代では、世界中のどこでも、そして、誰でも、マーフィーのように「生贄」になる可能性はあるのだけれど、それが自分の身に起こるという想像力をはたらかせるのは、非常に難しい。


安いファストフードを維持するためなら、過労死のひとりやふたりは「やむをえない犠牲」ではないのか?
1987年の『ロボコップ』は「企業が国家や地域の『公の力』をこえて、暴走していく話」でした。
テロリストでも悪の組織でもない人々が「黒幕」だというのは、当時としては斬新だったんですよね。
あのラストの「お前はクビだ!」からの流れの見事さは、いまも鮮明に覚えています。


今回の『ロボコップ』は「公権力と一体化してしまったグローバル企業の論理 vs ひとりの人間の尊厳」の物語です。
もはや、「わかりやすい人類共通の敵」は、存在できない時代なのかもしれませんね。


この『滅菌ロボコップ』、1987年版のファンには、ちょっと物足りない映画ではないかと思います。
あのグロテスクさを失った『ロボコップ』は、それと同時に「聖性」みたいなものも、失ってしまったのです。


きれいはきたない、きたないはきれい。

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