- 作者: 二木謙一
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2016/05/07
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2016/05/06
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内容(「BOOK」データベースより)
関ヶ原合戦で徳川家に敵対した大名は約150家。敗者へは主に「改易」という厳しい処分が待っていた。だが、己の才覚と努力、そして運でもって、再び大名に返り咲いた者がいた。現代人も挫折や左遷など憂き目にあうことが多い。逆境にあっても、なお信を貫き、強く生き抜く術は、戦国の「敗者復活型人間」に学べることが多いであろう。本書は大河ドラマ時代考証で有名な著者による、現代人にも通じる異色の歴史教養本。
「天下分け目」の関ヶ原。
小学校の頃、図書館で手にとった『マンガ日本の歴史』が、ちょうどこの「関ヶ原」の巻だったのです。
それが、僕の「歴史好き」のきっかけになりました。
日本全国の大名が、徳川家康の東軍と石田三成(名目上の大将は毛利輝元)の西軍に二分され、10万もの兵力での激戦の末、家康が天下人としての地位を固めた日本史上最大の合戦。
最初に読んだときには、僕は断然「石田三成派」でした。
自分を引き立ててくれた大恩人・豊臣秀吉の遺児・秀頼から天下人の座を奪おうとする「狸オヤジ」家康に対して、敢然と立ち向かう三成を応援していたのです。
さまざまな歴史の本や小説、伝記などを読んでいくうちに、秀吉の晩年のさまざまな問題行動や朝鮮出兵による疲弊と武将のあいだの軋轢、家康という人物の粘り強さと懐の深さを知り、どちらが正義、と言えるようなものではないな、と思うようにはなったのですが。
豊臣家からの視点では、家康は太閤との約束を破った酷い人ではありますが、もし家康が天下を取りにいかなければ、混乱の時代が再びおとずれ、もっと多くの死傷者が出て、社会も安定しなかった可能性が高いとも思われます。
この新書を読みながら、僕は「関ヶ原」は確かに歴史のターニングポイントだったけれど、「あのときこうしていれば……」というところは、「関ヶ原」以外にもけっこうたくさんあったのだな、と感じたのです。
「関ヶ原」は、徳川家康の「横綱相撲」という印象があるのですが、実際は、かなりリスクの高い勝負だったのです。
真田昌幸・信繁(幸村)父子が籠もる上田城攻略が難航し、徳川秀忠が関ヶ原に間に合わなかったのは有名な話なのですが、西軍の別働隊であった名将・立花宗茂らの1万5000の部隊も関ヶ原に参戦することができませんでした。
歴戦のツワモノであるこの部隊がいれば、勝負はまた違った結果になったかもしれません。
また、関ヶ原後、大坂城にいた毛利輝元は、家康の勧告に従って大坂城を離れ、所領に退去して謹慎するのですが、のちの大坂冬の陣で浪人たちを集めた付け焼き刃の軍勢で日本中の大名を相手に持ちこたえた大坂城に毛利輝元が入り、諸将に呼びかけて家康と対峙すれば、情勢はどうなっていたか。
加藤清正や福島正則の気持ちとしては、関ヶ原では「憎い石田三成が秀頼さまの名前を使って家康公を討とうとしている」と解釈できても、あの時期に「直接、秀頼公に弓を引く」ことはできなかった可能性は高いのです。
そこで勝負することができたかどうかが「器量」なのでしょうけどね。
西軍に加担した武将も、島津義弘は「もともと家康寄りで、伏見城に入ろうとしたけれど、入城を拒否されたので、やむなく西軍についた」そうです。
家康と三成のどちらが正しいか、だけではなく、どの武将も自分の家を守るため、あるいは所領を増やすために去就を決めた、あるいは、状況的にどちらかにつかざるをえなかった。
この新書で、「関ヶ原で敗れた武将たち」の「その後」を読むと、あれだけの大きな合戦だったにもかかわらず、戦後に捕らえられて直接処刑されたのは、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人の大名だけで、かなり多くの武将が助命されていることがわかります。
数には入っていたけれども実際には戦わなかった(戦えなかった)武将が多い西軍の中で、宇喜多秀家は、数少ない奮戦した武将でした。
関ヶ原の後は、薩摩の島津家などにかくまわれ、結局、罪一等を減じられて、1606年、息子や乳母など13人で八丈島への流刑となりました。
秀家の生活は苦しく、代官の谷庄兵衛が秀家を招くと、秀家は出された料理を布に包んで家族のために持ち帰ろうとしたという。また、宇喜多騒動で秀家に反発した花房某は、秀家が「米の飯を腹いっぱい食べて死にたい」と言ったことを伝え聞き、幕府に願い出て白米20俵を送ったという。
福島正則の船が酒を積んで八丈島に漂着すると、正則の家来は男から酒を分けてくれと懇願され、家来は男を秀家と知らず一樽の酒と干魚を贈った。だが正則に無断で咎めを覚悟したが、正則はこの男が秀家とわかり家臣の計らいを喜んだという。
寛永十一年(1634)に豪姫が没すると、幕府は彼女の遺言を受け入れた。以後は加賀の前田家から、隔年で白米70俵、金子35両、衣類、薬品などが送られた。
秀家は豊臣家が滅亡した後も生き続け、明暦元年(1655)11月に84歳で死去した。前田家からの支援は、宇喜多一族が赦免される明治元年(1868)まで続き、明治三年(1870)に東京の土を踏んだ宇喜多一族は七家に増えていた。
関ヶ原のあと、50年以上も宇喜多秀家は生きていたのです。
生活はラクではなかったようですが、裏切りが続出した西軍の武将のなかで、最後まで奮闘した秀家に、敵味方を問わず、敬意が払われていたことが伝わってきます。
これだけ長く生きて、晩年はどんな心境だったのだろうなあ。
関ヶ原での「裏切り」で知られる小早川秀秋の「その後」について。
関ヶ原の論功行賞では、秀秋は宇喜多秀家の領した岡山55万石を与えられている。だが、関ヶ原の戦いからわずか二年後の慶長七年(1602)、秀秋は急死した。
秀秋は西軍諸将の恨みの怨念が集中して、狂死したともされるが、アルコール依存症による内臓疾患であったとされている。鬱屈した秀秋は酒で憂さを晴らさねばやりきれない思いであったのだろう。
秀秋に子がないため、小早川家は改易された。秀秋の裏切り評価によって、家臣たちが再仕官するにも苦労したようだ。
関ヶ原でのふるまいによって、「その後の人生」が大きく変わってしまった武将は、勝者のなかにも少なくなかったのです。
小早川秀秋は享年21歳。関ヶ原の時点では、まだ10代だったわけで、いまの感覚で考えると、その若さで老練な武将たちのなかで決断するのは大変だっただろうな、と同情してしまうところもあります。
とはいえ、一度ついてしまった「裏切り者」というイメージは、なかなか払拭できるものではないのです。
また、宗氏のように、西軍につきながらも、朝鮮との国交回復・貿易の推進のためのパイプを持つ唯一無二の存在ということで、「現状維持」を許された大名もいますし、島津氏のように、「地の利」を活かして本領安堵をとりつけた事例もあります。
この本のなかでは、関ヶ原のあと、兄・信之のとりなしで助命されたものの、九度山に蟄居となった真田昌幸・信繁の話も出てきます。
大坂で真田丸に籠もって幕府軍を何度も撃退し、夏の陣では、最後の力を振り絞って家康に迫った真田信繁(つい、「幸村」って書きたくなってしまうのですが)。
信繁の首は家康に首実検され、家康を見捨てて逃げ散った旗本たちに「お前たちも真田にあやかれ」と言って、信繁の髪の毛を抜いて分け与えたという。
大坂城は翌日に炎上して落城した。信繁は徳川治世の中でも「日本一の兵」と称えられ、希望が失われた人生の最期に、武人としての名を挙げることができた。
八丈島で84歳まで生き、明治時代まで子孫が増え続けていった宇喜多秀家と、討ち死にしてしまったけれど、後世にまで名前を残した真田信繁。
どちらが幸せだったのだろうなあ、なんてことを、僕はつい考えてしまうのです。