Kindle版もあります。
教養は、すぐには役に立たない「最強の武器」。生きるとは何なのか、人生とは何なのか――。若い頃には少しも思いを致さなかったこうした問いに、年を重ねてきたからこそ我がこととして向き合うことができるのです。忙しく過ぎてあっという間に迎える50歳という節目は、誰にとってもこれからの身の振り方を改めて考えざるを得ない時期。「子供が自立するまでは、とがむしゃらに走ってきたけれど、いったい自分の人生はなんだったんだろうか」「残りの人生で、いったい何ができるのか」「いつまで働かなければならないのか」「このままでいいのか」……これまでの経験や知識を教養に昇華させるためのヒントが詰まった一冊。
「教養」という言葉は、なかなか取り扱いが難しいな、と思うのです。
「あなたは教養がない」というのは、「あなたには友達がいない」と同じくらい、人によっては「刺さる」罵りなんですよね。
「顔が悪い」なら、極論すれば整形することだってできるし、「頭が悪い」は、ムカつくけれど、生まれつきの才能みたいなものなので、諦めもつきやすい。
でも、「教養がない」には「育ちが悪い」+「努力もしていない」というような、先天的・荒天的な要素をすべてまとめてディスって(批判して)いるようなニュアンスがあるのです。
「賢さ比べ」のフィールドで戦っていなければ、そんなに響かないのかもしれませんが、そもそも「教養」とは何なのか?を他者にわかりやすく説明することそのものが難しい。それができるのが「教養がある」ということなのかもしれませんが。
この本、池上彰さんが、これまでの半生を振り返りながら、自分がやってきたこと、そして、これからの時代を生きる若者たちが、AI(人工知能)をうまく使い、人間らしさを保っていくために必要な「リベラル・アーツ」について書いたものです。
このリベラル・アーツという言葉がまた曲者なのですが、Wikipediaには、
リベラル・アーツは「実用的な目的から離れた純粋な教養」や「一般教養」とも、または人文学・芸術・自然科学・社会科学などの分野の基礎知識を横断的に学ぶプログラムともされる。
と書かれています。ただし、この項には「複数の問題がある」と冒頭に付記されており、「リベラル・アーツ」の解釈には幅があるし、「教養がありそう」「なさそう」くらいはわかっても、厳密な「教養の定量化」は難しそうです。
それでも、「教養がある人」だと言われてみたいものですよね、できれば。
池上さんは、1970年代頃から、世の中で大事なのは教養よりも経済力、「お金を稼げる力」だという風潮となり、ビジネスパーソンが読む本が仕事で役立つハウツーものや資産形成術、コミュニケーション能力の向上指南という実利的なものや自己啓発書が増えていったと仰っています。
「自己啓発本ブーム」も続いています。
そして、最近、2000年以降になって「教養としての◯◯」のような、「教養を前面に打ち出した本のタイトル」が多くなってきた、とも。
これは「すぐに役立つもの」、つまり実学の限界を知ったからではないでしょうか。社会に出る前に身につけておくべきものが、教養から「身を立てる」ものとしての修養に代わり、世間の価値が「いかに稼ぐか」に辿り着きました。それに合わせて大学も、教養を身につける場ではなく、就職やキャリア形成に力を入れて、良い会社に就職するための学びに変えていったのです。
その結果、どうなったでしょうか。高度経済成長が終わり、つかの間のバブル景気が弾けて以降、日本は「失われた20年」とも「失われた30年」ともいわれる低迷期を迎えることになってしまいました。
ここで、人々はなぜ日本が経済成長できないのかという問題に直面することになります。
海外では技術革新に伴い、革新的なイノベーションを起こす起業家が誕生しています。しかし日本ではそういう人材はあまり輩出されていません。
キャリア教育のような実学や、専門領域の枠組みの中でしか考えられない発想、さらには大学入試以前から試験を通過するためだけの勉強を重ねてきたことが、日本経済のみならず、日本社会が行き詰まる原因ではないか、と言われるようになってきたのでした。
そこで、改めて教養の重要性が再評価されるようになってきたのです。
この本の中で、池上さんは、何度も「すぐに結果を求めてしまいがちな世の中の風潮」に警鐘を鳴らしています。
僕は四半世紀(25年)くらいネットで発信しているのですが、ネットで書くことの面白さの大きな柱は、ほぼリアルタイムで反応が得られること、なんですよね。もちろん、思い通りにはいかないことのほうがよほど多いし、中には「とにかく大きな反応を得ること」が目的になって「炎上商法」に手を染めてしまう人もいるのですが。
例えばマサチューセッツ工科大学。世界のテクノロジーの最先端を切り開いている大学だから、当然、最先端の教育を行っていると思っていたら、そうではありませんでした。
先方の教授曰く、「最先端のことなんて、4年で陳腐化する。そんなことを教えても無駄です」と、むしろ最先端を生み出すための基礎的な力を身につける教育をしているというのです。
「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる。すぐに役に立たないことは、やがて役に立つことになる」というのが口癖だったのは、慶應義塾大学の塾長で上皇陛下が皇太子時代の教育係でもあった小泉信三です。彼とまったく同じことを、マサチューセッツ工科大学の先生が言っているのです。リベラルアーツの真髄はこれだ、と思いました。
しかも、理系大学のイメージの強いマサチューセッツ工科大学でも、専門の枠を超えた多くの授業を行っていました。人文系や社会科学はもちろん、文化、芸術、音楽に至るまで充実の教育内容で、特に音楽は4割もの学生が履修しているといいます。
「リベラル・アーツ」とは言っても、歳を重ねてから、具体的には「50歳を過ぎてから」何を学ぶのか、そんな年齢から何かをはじめても、「プロ」になるのは難しいだろうし、残りの人生を楽しく刹那的に生きたほうが良いのではないか、とも思うのです。
人間、やりたいことがやれるのも、身体が動くうちだけだし、お金があっても、身体的な理由で、食べたいものだって、(おいしく)食べられなくなっていく。
それに対して、池上さんはこんなふうに仰っています。
最近では、「ミッドライフ・クライシス」という言葉も耳にするようになりました。
ミッドライフ・クライシスとは「中年危機」を意味するもので、人生の折り返し地点を迎えた50代前後の人々が、心身の衰えを含むさまざまな理由から自分のこれまでの人生やその先の人生に不安を抱えてしまう心理状態を指します。
確かに、人生は後半戦に入っていき、季節で言えば秋から冬、1日で言えば昼過ぎから夕方、そして夜を迎える時期に向かっていきます。その中で、「子供が自立するまでは、とがむしゃらに走ってきたけれど、いったい自分の人生はなんだったんだろうか」「残りの人生で、いったい何ができるのか」「いつまで働かなければならないのか」「このままでいいのか」と思い悩んでしまう。
体力や頭の回転の衰えも顕著になってきますから、「もう若い人には勝てない」「後ろから来た人たちに、どんどん追い抜かれていく」などと、ますます鬱屈していくというもので、このミッドライフ・クライシスが社会問題にもなりつつあります。
しかし本来は、こうした時期にこそ、教養が役に立つのです。
教養は「現在ただいま」の時間軸を超えて、過去から現在までの長い人類の歴史や営みに触れることで、自分を客観視できるものなのです。
生きるとは何なのか、人生とは何なのか。若い頃には少しも思いを致さなかったこうした問いに、年を重ねてきたからこそ我がこととして向き合うことができるのです。
古来より、古今東西の多くの人たちが生きることの意味や老いに直面してきました。そうして書き残してきた多くの古典や名著が世界にはたくさん存在しています。例えば『源氏物語』にだって、色恋の話だけではなく、老いて死んでいく登場人物の心の様が描かれています。
以前、「教養があるとは、どういうことか?」という問いに対して、「何十年も刑務所の独房に入っていても、退屈しないこと」だと答えた作家がいたのを思い出しました(申し訳ありませんが、誰だったかは失念してしまったのですが……ちなみにその人は、少なくとも長期間刑務所に入ったことはなかったと記憶しています)。
「老い」というのは、こういう変化なのか、若い頃は想像もつかなかったけれど、ようやく実感できてきた。
そんな好奇心さえ持てるのが「教養の力」なのかもしれません。
池上さんは読書を薦めておられるのですが、「どんな本を読めばいいですか」と聞かれることが多いそうです。「気になるものを手当たり次第読んでみるのが一番いい」けれど、本が好きで、読むことに慣れていて、すぐに気になる本が見つかる人ばかりではないですよね。
「そうは言うけれど、なにか目安はないのか」と聞かれれば、私は「普段のあなたの関心や仕事の分野から、最も離れたジャンルの本を読んでみましょう」と答えています。
思い切って読んでみると、「もっとも離れている」と思っていた分野の中に、自分の仕事や生活、普段思っていたことに近いもの、どこか通じる部分に行き当たることもあります。もっと言えば、これまでとはまったく違う発想に行き当たって、目の前が明るくなるような体験をするかもしれません。
これを読んで、僕は10年くらい前、図書館で適当にひとつの棚の前に立って、「この棚のなか限定で、いちばん気になる本を一冊借りて読んでみる」というのを続けてみたことがあります。専門書で理解できなかったものも少なくないのですが、自分が好きな本、読みたい本ばかり手にしていると、どうしても同じようなものを読みがちなのです。あと、直木賞受賞作とか、本屋大賞の候補作品とかは、選り好みせずに読んでみていました。
おかげで好きになった作家もいれば、評判は良いのに僕には向いていなかった、と感じた作品もありました。
「リベラル・アーツ」とか言うけれど、自分にしかできない「専門性」みたいなものがないと、仕事にするのは難しいよな、とも思うのです。
池上さんは、NHKに勤めていた時、年次的に、そろそろジャーナリストとしてのキャリアのために解説委員になりたい、と考えていたそうです。ところが、解説委員長から「解説委員には専門分野がないといけないが、お前には専門分野がないだろう」と言われてしまった。
キャリアの限界を感じ、本を執筆して生活していくつもりでNHKを退職したのですが、自分には専門性がないからこそ、「専門家の言葉を『わかりやすく伝える』ことにニーズがあること、それができる基礎的な知識と経験、技術が自分にはあること」に気づくことができたのです。
専門家は、自分にはわかっていることなので、相手が「わからない」こと、あるいは「どのくらい理解できているのか」が想像できない。
世の中にはいろんな専門家がいて、専門知識でトップに立つことは難しいけれど、専門家の言葉を多くの人がわかるように「翻訳」する仕事は、「ブルーオーシャン(競争相手がいない、新しい市場)でした。
あの池上さんも、自分の思い通りの人生を送ってきたわけではなくて、50歳を過ぎてから、挫折を経て、自分の強みを創出した人なのです。
「学ぶ」というのも、向き不向きはあると思います。僕だって、苦手な運動系、ゴルフやゲートボール、登山などをこれから「教養として」やれと言われても、勘弁してほしい。
でも、池上さんの人生が参考になる人は少なからずいるはずですし、「学ぶ」というのは、多くの人にとって、人生の末期まで可能な娯楽ではないか、と思います。










