琥珀色の戯言

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【読書感想】人新世の「資本論」 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす。


 中学生になった僕の息子は、ソ連という国にけっこう興味があるみたいなのです。
 1970年代のはじめに生まれた僕は、資本主義と社会主義の対立のなか、子ども時代を過ごしてきました。
 「1999年に恐怖の大王がやってきて世界は終わる(=核戦争で人類滅亡?)」という「ノストラダムスの大預言」を、「30歳にもならずに死ぬのかな……」と、けっこう真剣に恐れていたのです。

 その後、ベルリンの壁は崩れ、「ソビエト連邦」という国はなくなってしまいました。
社会主義の理念はさておき、現実の人間社会でそれをうまく運用していくのは不可能ではないか」というのが、この半世紀を生きていた僕の実感なのです。

 ところが、社会主義という「敵」を失ってしまった資本主義は、歯止めを失ったかのように、どんどん先鋭化してきて、格差は拡がっていくばかり。そのあまりの苛烈さへの反動として、資本主義の「総本山」ともいえるアメリカでは、自称「民主社会主義者」であるバーニー・サンダース氏が若者から支持を集めているのです。

 結局のところ、資本主義が行きつくところは、「弱者からの搾取で富めるものがより富んでいくだけ」なのではないか、という意見と、「それでも、競争でみんなが豊かになろうとすることによって、貧困にあえいでいた人たちにもその恩恵が行き渡る効果のほうが大きい」という思想がずっと闘っているんですよね。

 新自由主義で格差が拡りつづけ、「負け組」にはつらい社会になっているのだけれど、話題になった『FACTFULLNESS』を読むと、世界全体のレベルでは、人々の「絶対的な貧困」も「教育・医療のレベル」もこの数十年で改善していることがわかります。

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とはいえ、これまでの資本主義社会というのは、労働者や発展が遅れた国や地域から「安く仕入れたものを高く売る」ことによって成り立ってきたわけで、世界全体が豊かになったら、どうなるのだろうか。

そして、世界のみんなが豊かになろうとしたときに、地球の環境への負荷がかかりすぎるのではないか。

実際に、人類の活動は、「地球を変えている」のです。

 人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新生(ひとしんせい)」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
 実際、ビル、工場、道路、農地、ダムなどが地表を埋めつくし、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。人工物が地球を大きく変えているのだ。とりわけそのなかでも、人類の活動によって飛躍的に増大しているのが、大気中の二酸化炭素である。
 ご存じのとおり、二酸化炭素温室効果ガスのひとつだ。温室効果ガスが地表から放射された熱を吸収し、大気は暖まっていく。その温室効果のおかげで、地球は、人間が暮らしていける気温に保たれてきた。
 ところが、産業革命以降、人間は石炭や石油などの化石燃料を大量に使用し、膨大な二酸化炭素を排出するようになった。産業革命以前には280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が、ついに2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年ぶりのことだという。そして、その値は、今この瞬間も増え続けている。
 400万年前の「鮮新世」の平均気温は現在よりも2~3℃高く、南極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は最低でも6m高かったという。なかには10~20mほど高かったとする研究もある。
「人新世」の気候変動も、当時と同じような状況に地球環境を近づけていくのだろうか。人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いない。

 
 この「危機感」は多くの人に共有されており、さまざまな対策が考えられているのです。

 著者は、「資本主義的な、経済発展や技術開発による環境破壊対策」の代表的なものを検証し、その矛盾を指摘しています。

 資本主義的な「緑の経済成長」を追い求める、先進国の気候ケインズ主義の未来は、暗い。たしかに、自国では「緑」を謳う経済政策が実行されるかもしれない。だが、周辺部からの略奪は深刻化していく。略奪こそが、中核部における環境保護のための条件になってしまっているのである。
 さらに、都合の悪いことがある。先進国での緑の政策の効果さえも疑わしいのだ。そもそも各家庭が複数台の自動車を所有している状態は、たとえそれが電気自動車であっても、けっして持続可能ではない。ましてや、テスラやフォードによるSUV型の電気自動車の販売計画は、既存の消費文化を強化し、より多くの資源を浪費することにしかならない。まさに、グリーン・ウォッシュの典型である。
 実際、電気自動車の生産、その原料の採掘でも石油燃料が使用され、二酸化炭素は排出される。さらには、電気自動車のせいで増大する電力消費量を補うために、ますます多くの太陽光パネル風力発電の設置が必要となり、そのために資源が採掘され、発電装置の製造でさらなる二酸化炭素が輩出される。もちろん、環境も破壊される。「ジェヴォンズパラドックス」だ。結果的に、環境危機は悪化していく。
 ここにダメ押しのデータがある。IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、電気自動車は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという。ところが、そこで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのだ。
 なぜだろうか? そもそも、電気自動車に代えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。
 以上の考察からもわかるように、グリーン技術は、その生産過程にまで目を向けると、それほどグリーンではない。生産の実態は不可視化されているが、相変わらず、ひとつの問題を別の問題へと転嫁しているだけなのだ。したがって、電気自動車や太陽光発電への移行は必要ではあるが、技術楽観論に未来を委ねるのは致命的な過ちとなる。


 「環境にやさしい製品」というのが重視されるようになると、各社がそのテーマに合った新製品をどんどん開発して投入し、人々はそれを消費していくわけです。
 そして、「グリーン技術」というのも、生産過程からのトータルで考えれば、そんなに「地球環境への負担」が変わるわけではないものがほとんどなのです。

 著者は、この本のなかで、「脱成長」を訴えているのですが、いまの時代を生きる人間のひとりとして、「すでに豊かになっている国(先進国)が、開発途上国に、脱成長、生活水準向上の放棄を押しつけることは不可能だ」とも述べています。
 僕くらいの、あるいは僕の親世代(いわゆる「団塊の世代」)の年齢であれば、「下り坂をゆっくり降りる」でもしょうがないかな、と思えても、いまの若い人たちからみれば「いまの高齢者たちは若い頃に「右肩上がりで経済成長していた日本」の恩恵を受けてきたのに、なぜ、自分たちは我慢するのが当たり前だとされるのか?と言いたくなりますよね。

 著者が「晩年のマルクスの研究」から導き出したひとつの回答は、<コモン(「人々が共有すること」とでも訳せば良いのかな……)>の再建なのです。

 そう、資本主義を乗り越えて、「ラディカルな潤沢さ」を21世紀に実現するのは、<コモン>なのだ。
 ここでは、<コモン>を潤沢さとの関係で具体的に説明した方が、イメージしやすいかもしれない。繰り返せば、<コモン>のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理するという点である。
 例えば、電力は<コモン>であるべきである。なぜなら、現代人は電気なしには生きていくことができないからだ。水と同じように、電力は「人権」として保障されなくてはならないのであり、市場に任せてしまうわけにはいかない。市場は、貨幣を持たない人に、電気の利用権を与えないからである。
 ただ、だからといって、国有化すればいいわけではない。なぜ国有ではダメかといえば、電力を国有にしたところで、原子力発電のような閉鎖的技術が導入されてしまっては、安全性にも問題が残るからである。また、火力発電も、しばしば貧困層やマイノリティが住む地域へと押しつけられ、大気汚染が近隣住民の健康を脅かしてきた。
 それに対して、<コモン>は、電力の管理を市民が取り戻すことを目指す。市民が参加しやすく、持続可能はエネルギーの管理方法を生み出す実践が<コモン>なのである。その一例が市民電力やエネルギー協同組合による再生可能エネルギーの普及である。これを「民営化」をもじって、市民の手による「<市民>営化」と呼ぼう。

コミュニズム共産主義)」という言葉は、この「コモン」から生まれたのですが、人類のこれまでの歴史上、「国がすべてを所有する政策」は、うまくいかなかったのです。
そこで、国ではなく、市民、身近な共同体が人間が文化的に生きるのに必要なものを「共有」して、苛酷な労働や格差を抑制しながら、「脱成長」を目指していくべきではないか、と著者は考えているのです。
なんだか夢物語のように聞こえるけれど、アメリカやスペインの一部の地域では、市民の自治による<コモン>が行われ、成果をあげていることが紹介されています。

 マルクスは「必然の国」と「自由の国」を分けている。「必然の国」とは、要するに、生きていくのに必要とされるさまざまな生産・消費活動の領域である。それに対して、「自由の国」とは、生存のために絶対的に必要ではなくとも、人間らしい活動を行うために求められる領域である。例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどである。
 マルクスは、この「自由の国」を拡大することを求めていた。いわば、この領域に広がっているのが、「良い」自由である。
 だが、そのことは、「必然の国」をなくしてしまうことを意味しない。人間にとって衣食住は欠かせないし、そのための生産活動もけっしてなくならない。「自由の国」は「必然の国の上にのみ開花」するのだ。
 ここで注意しなくてはならないが、そこで開花する「良い」自由とは、即物的で、個人主義的な消費主義に走ることではない。資本主義のおかげで、生活は豊かになっているように見える。だが、そこで追求されているのは、際限のない物質的欲求を満たすことである。食べ放題、シーズンごとに捨てられる服、意味のないブランド化、すべては、「必然の国」における動物的欲求に縛られている。
 それに対して、マルクスの掲げる「自由の国」は、まさに、そのような物質的欲求から自由になるところで始まるのである。集団的で、文化的な活動の領域にこそ、人間的自由の本質があると、マルクスは考えていたのだ。
 だから、「自由の国」を拡張するためには、無限の成長だけを追い求め、人々を長時間労働と際限のない消費に駆り立てるシステムを解体しなくてはならない。たとえ、総量としては、これまでよりも少なくしか生産されなくても、全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己抑制」を、自発的に行うべきなのである。闇雲に生産力を上げるのではなく、自制によって「必然の国」を縮小していくことが、「自由の国」の拡大につながるのだ。


 なるほどなあ、いまの時代のマルクス主義って、こういう読み取りかたをされているのか、と、「社会主義の敗北」と「行き過ぎた資本主義」を目の当たりにしてきた僕は感心しながら読みました。
 けっして簡単な本ではないと思うのですが、この新書がかなり売れているというのもすごいことだと思います。

 その一方で、僕はこれを読みながら、糸井重里さんのことを思い出していたのです。
 日本の経済成長のなかで、商品を売るためのコピーライターとして大活躍した糸井さんは、その後、体験すること、表現することを重視した活動をされていました。でも、いま、晩年の糸井さんが、自らのサイトでやっているのは「優れたものを売ること」なんですよね。

 著者やマルクスが述べているような「集団的で、文化的な活動」というのは、本当に人を幸せにするのだろうか?

 もちろん、人それぞれではあるだろうけれど、僕を含めて、「そんな高尚なものよりも、「他人とちょっと違うモノ」を手に入れるほうが幸福を実感できる、というのが人間の「多数派」ではないだろうか?

 コミュニズムの最大の障壁は、それを実行するのが「人間」である、ということなのだと思うのです。僕が「過去の失敗」に引きずられているだけなのかもしれないけれど。


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