Kindle版もあります。
現代を生きる私たちに残された道は2つしかない。資本主義に代わる新しい社会を模索するか、資本主義の持つゲーム性を理解した上でいっそそのゲームを楽しむか、そのいずれかである——。現行の資本主義が偶然成立したハリボテにすぎないことを喝破しながらも、安易に別の可能性に賭けるのではなく、「資本主義ゲーム」の枠内で賢く生き抜くための方策を示す。
うーむ、けっして「つまらない本」ではないのです。
でも、読みながらずっと「で、いつ『働かないおじさんの話』は出てくるの?」と思っていました。
この本の大部分は、ヨーロッパの「東インド会社」からはじまる「資本主義の歴史と、現在の資本主義社会が抱えている問題点の指摘」なのです。
専制君主が支配していた中世までの世界は、新興成金が幅を利かせる世界に、徐々に変わっていった。同時に、新興成金たちは富の拡大を担う存在として、都市に流入していった。 領土支配から商業社会へのこの大きなシフトチェンジの駆動力となったものは何だったのか──。それは自由恋愛である。
荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、資本主義は、恋愛を媒介として大きく変質してきた。異性にモテたい、という欲望が人を財産の獲得へと駆り立て、カネと恋愛とを一体化させていったのである。
資本主義の誕生と波及について分析した古典的論考として、特に取り上げたいのは、ヴェルナー・ゾンバルト(1863〜1941)の『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫)である。プロテスタンティズムの教理こそが禁欲的な営利活動に結びつき、資本の形成に帰結したとみるマックス・ウェーバー(1864〜1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)と双璧をなす。
ゾンバルトは、ウェーバーの言う「禁欲」よりも、むしろ人間の欲求の「解放」こそが資本主義を形成したと捉えている。ゾンバルトの言う欲求の「解放」とは、一面では、身分という壁を壊すことを指していた。それまで王侯貴族に独占されていた富が、市民階級である資本家たちの手にも渡っていくことによって、中世までの固定的な身分制度に楔が打ち込まれた。
資本主義を語るうえで「定番」的な書籍だけではなくて、さまざまな角度からの研究が紹介されており、「モテたい、で人間は活動してきたと主張する人は、けっこう前からいたのだなあ」と感心してしまいます。
いろんな人が「日本の会社勤めをしている人たちのキャリアアップ信仰」に対して述べている違和感の紹介も興味深いものでした。
東洋経済オンライン編集長、NewsPicks編集長などを経て、PIVOTを起業した佐々木紀彦は「サラリーマンも別種のアヘンです。いつの間にやら、心身に忍び込むのがアヘンの怖いところです」と述べた。「中毒になる前にアヘンを断たなければならない。(中略)世の中にインパクトがあることを成し遂げるためにも、サラリーマンを卒業しよう」と決意し、18年のサラリーマン生活に見切りをつけたという。
佐々木によれば、年齢の上昇とともに給料も地位も上がっていき、周囲も忖度してくれるようになり、家族も安心してくれる。この意味での中毒性が、企業人にはあるという。
三菱商事からキャリアをスタートさせた実業家の黄皓も、インタビューに答えて同種の発言をしている。黄は、人気恋愛リアリティーショーに出演したことでも知られている。
「モテそう、高収入、つぶしがきく」という理由から三菱商事を選んだという黄。しかし、入社後、内向きの社風に違和感を抱いたという。
商社って社員をぬるま湯に浸からせるのが上手なんです。不満を生み出さない程度に負荷をかけて、条件を良くして心地よい環境を作る。忙しいから会社にコミットするし、商社の看板を背負っているプライドを持たせることもできる。だから会社へのロイヤルティーは基本高い。それが商社の人事マネジメントだと僕は思っていて、外に目を向けさせないのが会社側の考え方ですよね。
しかし一歩外に出てみれば、「(会社員の)たかだか1500万円の年収なんて自分で事業やってる人からしたら『鼻毛』みたいなもん」と考えるようになったという。商社に限らず、この「鼻毛」の現実から目をそむけさせ、社員に快適感情を提供する「アヘン」が、日本の大企業のよくできた仕組みである。
日本郵船の社員を経て婿養子先の松井証券を引き継いだ松井道夫も、上手いセリフを残している。曰く、「サラリーマンの時は、不安はなかったが、不満はあった。独立すると、不満はないが、不安はある」と。
また、一般には、同じエコバッグを3年間使えば、レジ袋よりも環境コストが低くなると言われているが、同じエコバッグを3年間も使いつづける人がどれだけいるだろうか。
斎藤幸平は、宗教を「大衆のアヘン」と呼んだマルクスにあやかって、「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』である」と述べている。マイボトルやエコバッグの流行に関しても鋭く切り込んでいる興味深い見方である。
年収1500万円になれるアヘンなら、中毒になってもいい……
そもそも、何の宗教にも価値観にも頼らずに生きていける人なんて、ごく一握りしかいないと思うのです。
なるべく悪質なものに依存しないように、というのが大事なだけで。
大きな組織の中にいたほうが、より社会にインパクトを与える仕事に携われる場合も少なくない。
自分の好きな事をやろうと独立したけれど、結局、食べていくために妥協しなければならなくなった人も大勢います。
「資本主義の大まかな歴史が、新書一冊にまとめられている」という意味では、知識の整理のためにも有益だとは思うのですが、「50過ぎの僕が読みたいのは、AIの導入などITへの適応力が求められるなかで、『働かないおじさん』として組織で生き延びて悪目立ちしない給料泥棒として定年まで生き延びるための処世術」なんだけどなあ……と嘆息せずにはいられませんでした。
話を元に戻すと、「待遇はそれほどよくないが、楽しい立場」にあるE(従業員)の人を探していくと、浮かんでくるのは、昭和を象徴する漫画の登場人物たちである。
『美味しんぼ』(原作・雁屋哲/作画・花咲アキラ、小学館)の山岡士郎、『釣りバカ日誌』(原作・やまさき十三/作画:北見けんいち、小学館)の浜崎伝助=浜ちゃんなどだ。山岡は東西新聞社文化部の記者、浜ちゃんは中堅ゼネコン会社・鈴木建設の一ヒラ社員という設定である。ともに、堅実な経営基盤を持つ、安定企業に勤務している点が共通している。
さらに、山岡も濱ちゃんも、会社での仕事にはあまりやる気がなく、勤務態度も悪いが、そのかわり一芸に秀でており(山岡は食に対する知識や能力、浜ちゃんは釣りのスキル)、結果としては会社に貢献するストーリーとなっている。
上司からはしょっちゅう「おまえはクビだ」とどやしつけられているが、いないと困るので、実際には解雇されずに済んでいるという点も、二人の共通点だ。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治、集英社)の主人公・両津勘吉も、同じカテゴリーに入れるべきかもしれない。出世には縁がないものの、公務員として収入は安定しているし、しばしば失策をやらかして始末書を書かされているわりに、いざというときには人並外れた力を発揮するため、結果としては人の役に立っている。
みんなマンガのキャラクターじゃないか!しかも特殊技能持ち!
こういう例を出して、「働かないおじさんとして生き延びるのは、資本主義社会では一つの上手いやり方ですよね」
と言われても、困惑するばかりです。
「普通の人」が、それを今後も続けていくためのノウハウが公開されているわけでもなく、もうそれが通用しなくなってきていることを痛切に感じている中高年にはもちろん、「働かないおじさんとはどういう人たちなのか」と、日頃ムカついていて、溜飲を下げるような話を読めるのではないかとこの本を手に取った若者たちにとっても、「釣りタイトル感」は否めません。
けっこう堅い内容の資本主義の現状について書いた本に、こんなキャッチーなタイトルをつけた編集者の手腕は、評価されるべきものなのか、責められるべきものなのか。










