琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

個人サイトで「つまらなかった」と書く必要性


個人サイトで「つまらなかった」と書く必要はない。(Something Orange (2008/3/25))

 僕も基本的に「つまらなかった」と書くことは書き手にも読み手にもメリットは少ないと思っています。
 せっかくだから、双方にとってのメリット、デメリットを上げてみましょうか。

書き手にとってのメリット
(1)とりあえず新しいエントリが書けて、更新できる
(2)その「つまらない作品」を他の人が買わないように啓蒙することができる
(3)自分の好みを通じて「自分語り」ができる
(4)憂さ晴らしになる
(5)罵倒芸として面白がってくれる人がいるかもしれない
(6)その作品のアンチから、共感してもらえる


書き手にとってのデメリット
(1)時間のムダ
(2)「文句ばっかり言っている人」と思われ、イメージ悪化
(3)その作品のファンから恨まれたり、嫌われたりする

読み手にとってのメリット
(1)その評価を読んだことによって、「地雷」を踏まずにすむ
(2)不満に感じた人が自分だけじゃないとわかって安心できる
(3)とりあえず批判でもネタとして面白いこともある


読み手にとってのデメリット
(1)「つまらない」という作品を教えてもらっても、面白い作品を直接教えてもらうより効率が悪い(要するに時間のムダ)
(2)悪口というのは、基本的に不快
(3)自分が好きな作品ならなおさら不快

うーん、とりあえずこんなところでしょうか。

(ちょっと今は時間がないのでひとまず中断。続きはWEBで!……ってもとからWEBなので夜に更新します)

以下続き。まだ書こうと思っていることの10分の1くらいしか書いてないのに、みんなブックマークしすぎです!


 ところで、この「個人サイトで『つまらなかった』と書く必要性問題」に関しては、非常に重要な前提条件が抜け落ちているのです。
 それは、「そこに書かれているのは『批評』なのか『感想』なのか?」という点。
 僕は自分がずっと書いているのは、本の「感想」だと考えているので、自分で「書評」だと書いたことは一度もありません。
 まあ、そういうのって、そんなに厳密に線引きできるもんじゃあないのでしょうが、豊崎由美さんや呉智英さんが書かれている「書評」を読むと、「ある本の価値を客観的に評価する」ためには、ものすごい量と多くの時代にまたがった読書量と分析力が必要とされるのだなあ、と痛感させられます。そういうのって、歴史家が「あるリアルタイムの大事件の世界史的な位置づけ」を語るようなもので、膨大な知識の積み重ねや研鑽がないと、「書評」なんて言ってはならないような気がするんですよね。
 もっとも、これは「僕がそう思っている」だけで、みんな同じように考えるべきだ、と言うつもりはありませんが。

 個人的には、ネット上には、「純粋に内容でお金が獲れる書評」というのはごくごくわずかだと思っています。
 「書評」で人気のブログの多くは、書かれている内容ではなくて、ブロガーのキャラクターを多くの人が愛していて、そのブロガーの「感想」を「あの人が褒めるんだったら読んでみよう」と評価しているだけなのではないかと。


 すみません、例のごとく脱線しましたが、そろそろ本題めいたところへ。
 ここでid:kaienさんが書かれていること、僕は正しいと思っています。ただし、その正しさが成立するのは、「そのブログが、他者に本を薦めるためのブックガイドであることを想定している場合」に限ります。
 例えば、世界でいちばん有名なレストランガイド『ミシュラン』、身近なところでは、タウンガイド誌(『○○ウォーカー』など)において、「星マイナス3個のレストラン」や「オススメできない居酒屋」なんていうのが紹介されることに、果たして意味があるでしょうか?いや、書いてて僕もネタとしては「読んでみたい」と今思っているのですが、まあ、現実問題として、「美味しい店」を探している読者は、そんなページで定価を上げてほしくないはずです。
 純粋に「面白い本を他の人に薦めるためのブログ」であればあるほど、そこで採り上げられている本に、ノイズは必要ありません。
 理想としては、「あのブログに紹介されている本は全部面白い!」「あそこで言及されている本を買っておけば間違いない!」と言われることだと思うんですよ。

 しかしながら、多くの「読んだ本のことを書くブログ」は、なかなかそうはいかないわけです。
 というか、心の底から「ブックガイド」であることを目指している「本のブログ」って、ほとんど無いと思われます。
 多くの「本の感想を書くブログ」っていうのは、実は「本を通じて自分語りをしているブログ」なんですよね。

 そりゃお前のことだ!と思ったそこのあなた、ハイ正解!!

 僕の場合について書きます。
 基本的に、本の感想を書く場合には2つのパターンがあって、ひとつは、「面白くて誰かに話したい、ぜひ読んでもらいた本を読んだとき」。そしてもうひとつは、「うーん、今日はなんかあんまり書くことが思い浮かばないなあ、というとき」。ブログってやつは、やっぱりある程度の頻度では「更新」しておかないとなんとなく不安なものですから、そういうときに「本や映画やテレビの感想」というのは役立つことが多いんですよね。
 ただそういう「穴埋め的な本の紹介」は、やっぱり反応も悪いし、僕も書いていて面白くないんです。しかしながら、僕としては、「読んだ本をとりあえず感想とともにブログに書いておく」というのは、「今まで自分が読んだ本コレクション」を作っていくような楽しみがあるのも事実。「こんなに読んでるんだ凄いなオレ」みたいな自己満足のために、チクチクとブログに「貯本」したりしているわけですよ。

 で、また本線に戻りますが、本好きにとっての「本を語ること」というのは、「自分を語ること」なんですよね。
 僕は、「面白い本」「つまらない本」のことを書いているのではなくて、いつも、「その本を面白いと思ったときの自分」「その本をつまらないと思ったときの自分」のことについて書いています。実は、ひとつの本に対する「感想」というのは、読む側のコンディションによってものすごく左右されるものではあるんですよね。高校生の頃に読んだ『ノルウェイの森』への感想は、「大人ってこんなにすぐ『寝てしまう』のだな」でしたし、重松清さんの『流星ワゴン』を読んで泣いたのは、僕の亡くなった父親のことを思い出さずにはいられなかったからでした。後者など、中学生のときに読んでいたら、「何このお涙頂戴小説!」と反発していたかもしれません。
 みんなが僕のような考え方で本の感想を書いているのではないというのは承知の上ですが、それでも、本好きにとって「本の感想を書く」というのは、ある意味「自分が生きてきた痕跡」であり、「その時代の感性の記録」なのではないでしょうか。

 「グルメガイド」に「不味いもの」を記録することは、あまりにも「非効率的」です。
 しかしながら、毎日食べたものを記録していくブログに、「不味いものなんて記録しても役に立たない」と言うのは、あまりにも「不粋」というものでしょう。生きるっていうことをトータルで考えれば、「不味いものを食べたことを記憶しているからこそ、旨いものを口にしたときの喜びがいっそう際立つ」のでしょうから。
 いくら「つまらない本」だからって、そんなふうに「引き立て役」として利用するのは忍びないところはありますが、それは「商品」の宿命ではあるでしょうし、僕はその分、自分が面白いと思った本は、なるべくがんばって紹介するように心がけていますし、この本がひとりでも多くの人の手にとられ、この本を書いた人の心も懐もほんの少しでも潤ってくれればいいな、と願っています。
 残念ながら、実効はほとんどないのですが、そういう気持ちはあるんです、本当に。

 いやまあ、そんなに「重い」ことをグダグダ言うなよ、っていうのもわかります。オレは脊髄反射で書いているんだ、と。それはそれで別に悪いことじゃないしね。それでも、「記録」するというのは、少なくともそれを記録した本人にとっては、なんらかの「意味」があるのだと思うのです。個人的には、やっぱり「amazonへのリンクだけで感想なし」とか、「面白かった」「つまらなかった」だけで中身には一切触れず、とか、「あらすじのみ」みたいなもは、「うわっ、なんかもったいないなあ」と感じてしまうんですけどね。アバウトでもいいから、「10点満点の○点!」というくらいの付箋はつけておいてもいいような気がします。せっかく書いたのだから、誰かに興味を持ってもらいたいし、できれば読んでもらいたいしね。

参考リンク:”星何個”評価には意味があるのかね?(琥珀色の戯言)


 僕は、個人サイトだからこそ、誰のためにでもなく、過去の、そして未来の自分のために「つまらなかった」って書く意味があると思うんです。「つまらない」って感想そのものはつまらなくても、それを「つまらないと感じたときの自分」は、けっしてつまらない存在ではないですよ。
 もちろん、そんなサイトはモテませんし、アフィリエイトで本が売れることもありませんが、別にいいじゃないですか。そんなこと言い始めたら、個人サイトそのものが、「必要性」とは極北の存在なわけだし。


(しかしこの文章って、あまりに読む側のことを無視した話ですね……それについては、またあらためて書くかもしれません)

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