琥珀色の戯言

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父として考える ☆☆☆☆


父として考える (生活人新書)

父として考える (生活人新書)

内容紹介
見えてきた、日本のウラオモテ!
子育て、教育、民主主義……。
ここまで語るか!? 父ふたり。
娘ができて初めて見えた日本社会の問題点とは? 
若者の非婚や少子化をいかに乗り越えるか? 
育児体験の比較から、教育問題や男女のパートナーシップのあり方までを論じ、「子ども手当」など保育支援策を検討。
ツイッターなど新メディアを利用した民主主義の新たな可能性まで、今日の知的課題をも浮き上がらせる白熱の討論。
もはや父親として、この国の現状を黙視してはいられない!
育児体験から教育制度、若者の非婚や少子化問題まで。
「おひとりさま」の問題点から、ツイッターを利用した民主主義の可能性まで。父親ふたりがホンネで語る白熱の討論!

 3歳と生まれたばかりのふたりの娘さんがいる宮台真司さんと4歳の娘さんがいる東浩紀さん。お二人が「父親になって感じるようになった」日本社会の問題、子どもはどう育てるべきか、という試行錯誤について語っておられる本。
 お二人の対談なので、けっこう難しいかな、と思っていたのですが、ところどころ自分が理解できているか疑問な部分はあるものの、全体的には読みやすく、わかりやすい本でした。
 うちの1歳9カ月の息子とついつい比べてしまって、やっぱりこの2人の子どもは賢そうだなあ、なんて軽く劣等感を抱いたりもしながら。

宮台真司ところで、東さんのお話をうかがって思ったのは、お子さんは「小さいときの東さん」ではなくて、やはり「いまの東さん」に似たのではないかということです。


東浩紀なるほど。


宮台:長女もそうなんです。僕は小さい頃おとなしく、成長するにつれて凶暴になったんですが、長女は既に凶暴です。公園に行くと年長、年少にかかわらずすべての子どもに命令しまくり、命令を聞かないとキレます。キレると周囲はもはや手を付けられなくなり、僕が携帯電話で呼び出されます(笑)。幼少期の僕とは似ていないのですが、長じてからの僕に似ています。
 どうも、親の成長した姿に見出せる「なにか」を学ぶんじゃないかと思います。こんなことは誰も言っていないので、印象論的な仮説です。でも、公園にいる親と子の関係を見ても、成長した大人としての親の姿から見えてくるボンヤリとした半影が、子どもに影響してくると思えてなりません。だから、東さんが幼少期に社交的でなかったとしても、成長した東さんの持っているオーラに娘さんが反応するんじゃないかな。

宮台:たとえば、僕が娘を叱ります。すると、僕がいないところで、娘は他の子に対して同じように「叱って」いるんですね。妻から聞いて、なるほどと思いました。僕が「そんなことばかりやるんだったら、もう遊ばないよ」と叱ります。すると、もう翌日から、他の子に「そんなことするんだったら、もうあーそばない」とか言いまくっている(笑)。
 つまり、僕のコミュニケーションの形式を学んでいるわけです。これはすごいことだなと思いました。だから、説教したり、アドバイスしたりするときには、その内容ではなく、むしろ、どういう形式をとっているかのほうが、はるかに重要かもしれないんです。そのことを弁えていない幼稚園や小学校の先生が多すぎるんじゃないでしょうか。

ああ、こういうのはまさに「実感」だなあ、と思うのです。
僕も自分の息子が妻に似てきていると感じることが多いのですが、それはやっぱり、「遺伝的な力で親の子どもの頃に似ている」というよりは、「いまの親の影響を受けている」ような気がします。
そういうのを、これだけうまく言葉にするのは、本当に難しいことだけれども。

そして、「お受験」については、こんなことを仰っておられます。

東:娘はいま保育園ですが、あと二、三年もすると小学校の選択という大きな問題に直面します。そこで周囲を見回してみると、うちの近所の場合、マンションの隣人も保育園の友だちも多くは近くの公立小学校に行くらしい。
 そしてここで重要なのは、小学校の質云々以前に、まずはうちの娘にとってその人間関係自体が大きな財産だということです。私立への進学を選択することは、その多くを捨てることを意味する。それは彼女にとって大きなコストです。ではそれだけのベネフィットはあるのか。大人の、というか僕のような都市住民の観点からは、人間関係も流動的なものに見えてしまう。けれども子どもにとっては、それはすべてかけがえがない一回限りの経験です。したがって変化や移動のコストがきわめて高い。世界に対するモードがまったくちがっている。

「お受験」による私立小学校の選択に限らず、子どもにとって「引っ越し」というのは、とてもストレスがかかるものなんですよね。
僕の父親は転勤がけっこう多かったんで、小学校〜中学校時代、何度も引っ越しをしたのですが、もともと社交的ではない僕のような子どもにとって、「引っ越し」「転向」は本当につらかった。
親にとって「家を建てたから引っ越す」というのは大きな喜びでも、子ども時代の僕にとっては、「新しい大きな家よりも、友だちと離れたくない」というのが本心でした。
僕はいま、親になってしまったけれど、この本を読んで、忘れかけていた、自分の昔の記憶を掘り起こされたような気がしました。
子どもにとって大事なのは、「子供部屋」や「遊べる庭」だけじゃないんだよなあ。
もっとも、親には親の都合というのもあるわけですが……

あと、これを読んでいて、宮台さんや東さんの場合、私立小学校に行くかどうかは、「こちら側の選択次第」なのかもしれないけれど、多くの親にとっては、経済的・子どもの学力的な障壁で、「お受験が選択肢になりえない」のだよなあ、とも感じました。

東:かつて三浦展さんがショッピングモールに覆われた風景を「ファスト風土化」と批判しました。似た問題意識を持つかたは多いですが、僕はその見方はあまりに一方的だと思う。実際、若い子連れの夫婦があまりお金をかけずに一日遊べて、買い物もできるという意味では、ショッピングモールほど便利で快適な場所はない。

 これも、僕は実際に父親になって、はじめて実感したことでした。
 それまでは、「おんなじような店が入っているショッピングモールがどんどん増えていき、小さな個性のある店が消えていくのはよくない」と思っていたのだけれど、子ども連れとなると、あのショッピングモールの便利さに頼らずにはいられません。子ども連れにとっては、ひとつ階を移動するだけのことや、オムツを替えられるトイレを探すだけでも大変なんだけれども、いまの日本には、そこに配慮されている場所というのは、驚くほど少ないのです。

 そして、東さんのこんな言葉には、まさに目から鱗が落ちました。

東:現代社会のライフスタイルは多様です。子どもを早く寝かせたほうがいいのは当然です。しかし、夜8時に子どもを寝かせたら子どもと会えない父親もいる。
 さらに言えば、これは僕の実体験ですが、うちのようなふたりともフリーランスの夫婦が子どもをつくると、生活時間の移行にとても時間がかかる。そもそもいまの社会は昼夜の区別がなくなっていて、コンビニもいつでも開いているし、仕事もメールで休日でもいつでも対応するのが常識になっている。20代後半の独身でフリーランスの人間なんて、その条件下で生活時間はめちゃめちゃになっているものです。でも、そういうひとでも子どもはつくる。というよりも、そういうひとでも子どもがつくれるような社会にしよう、とみなで言っている。
 にもかかわらず、子どもをつくると途端に出会うのは、子どもは8時に寝かせろ、三食お母さんがバランスを考えて自宅でつくれ、という言説です。僕はここに大きな無理を感じました。つまり、現代社会で仕事をする上の時間感覚と、子育てにあたって奨励されている時間間隔に、大きなズレがあるんですね。そうすると一方から他方への変更はとてもコストがかかる。

 僕自身も、「夜8時に子どもを寝かせたら子どもと会えない父親」であるにもかかわらず、夜中にファミレスに来ている親子連れに対して、「こんな時間まで、子どもを起こして連れ歩くなんて!」と憤ることもあります。「規則正しい生活はしているけれども、親と接する時間が短い子ども」と「時間は不規則でも、親と触れあっている時間が長い子ども」のどちらが幸せなんでしょうか?まあ、僕は「後者のほうが絶対に幸せ!」だと言いきる自信もあんまりないのですが……
 それでも、いろんな子育てのスタイルが許されるようにならなければ、子どもを産むという選択をする人は増えないだろうということはわかります。
 政策的なアプローチだけが採り上げられがちだけれど、親になる可能性がある世代の実感としては、こういう「社会とか身近なコミュニティが掲げている『理想的な子育て』」のハードルの高さこそが、「子どもをつくること」への心理的な障壁となっている面もありそうです。

 東さんが僕と同世代ということもあり(まあ、置かれている環境はかなり違うとしても)、とても興味深く読めた対談でした。
 「父としての自分に悩んでいる」皆様には、ぜひ一度読んでみていただきたい一冊。


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