琥珀色の戯言

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【読書感想】ナチスの財宝 ☆☆☆☆


ナチスの財宝 (講談社現代新書)

ナチスの財宝 (講談社現代新書)


Kindle版もあります。

ナチスの財宝 (講談社現代新書)

ナチスの財宝 (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)
美術館建設の野望を抱いていたヒトラーが、各地で略奪した美術品60万点のうち、現在も未発見のナチス財宝は10万点を数える。今なおトレジャー・ハンターたちを惹きつけてやまない有名な「琥珀の間」や、悲劇の将軍・ロンメルの財宝など「消えた宝」のゆくえを追う、まるで冒険小説のようなルポルタージュナチス東ドイツの「亡霊」が浮かび上がってくる、教科書や歴史書には載っていないドイツ史がここに―。


 こういう「隠された宝」の話って、なんでこんなに面白いのだろう?
 別に自分のものになるというわけでもないのに。
 有名な「徳川埋蔵金」とか、「日本軍が敗戦後の再起のために隠した財産」の伝説が日本にもありますが、同じような話にが、ドイツ・ナチスにもあるのです。

 60万。
 何の数字かお分かりだろうか。
 これはナチス・ドイツが、政権を握っていた1933年から45年の間に、主に欧州各地で略奪した絵画、彫刻、タペストリー、その他の美術品を総合した数だ。2000年に米国の下院財政委員会(United States House Committee on Financial Services)が公表したもので、あまりに莫大な数のため、委員会も「正確な統計を出すのは不可能」と嘆いている。この数字には高価な家具類や書物、切手やコインは含まれない。
 内訳は、ドイツ国内とオーストリアで略奪された美術品が20万点、西欧で10万点、東欧・旧ソ連で30万点。このうち、今なお行方が分からず、元の所有者に返還されていない作品数は10万点に上ると推測されている。


 ナチスは、ヒトラーが画家志望で、芸術にも強い興味を持っていた、ということもあって、さまざまな美術品を蒐集していたことが知られています。
 なかには、戦後に発見されたものもあるため、「同じようなものが、他にもたくさんあるのではないか」と多くの人が「宝探し」を続けているのです。

 こうしたナチスの略奪美術品は、今も時々発見される。2012年2月には、ドイツ南部ミュンヘンのアパートから、シャガールの未発表作品のほかピカソマチスルノワールら著名画家の絵画・版画が1406点も見つかった。推計で時価10億ユーロ(約1300億円)相当。ドイツ捜査当局が脱税捜査の過程で、この部屋の所有者コーネリウス・グルリットを家宅捜査した際に偶然発見したものだ。グルリットの父親は、ナチス政権の宣伝相ゲッペルスと親しい画商で、ユダヤ人らから没収した絵画を多く取り扱っていた。息子のグルリットはこうした作品を戦後も保管し、時折数枚を売却しながら生活していたらしい。


 実際にこういう話があるのですから、他にも、隠された(あるいは、忘れられた)ナチスの略奪美術品が存在するというのは、説得力がある話です。


 ロシアのサンクトペテルブルクにある、エカテリーナ宮殿内の一室であった『琥珀の間』も、「ナチスによって持ち去られ、どこかに隠されたのではないか」と言われており、著者は、その行方をさまざまな資料や取材を元に追っていくのです。

 ロシア・サンクトペテルブルク郊外の宮殿に渡った「琥珀の間」が最終的に完成したのは、1770年だった。完成を心待ちにしていたピョートル大帝も既に世を去り、当時は女帝エカチェリーナ二世の治世だった。総面積約100平方メートル。壁面から天井まで琥珀で覆われた絢爛な部屋を、女帝はことのほか愛したという。完成まで、実に70年近い歳月がかかったことになる。
 再び歴史の表舞台に登場するのは20世紀だ。1941年6月、独ソ不可侵条約を破ったドイツが電撃的にソ連に侵攻し、9月にはレニングラード(現サンクトペテルブルク)郊外ツァールスコエ・セローのエカチェリーナ宮殿に保存されていた「琥珀の間」を略奪した。ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーがもともと画家志望だった話は有名だが、ナチス幹部には国家元帥ゲーリングら美術マニアも多く、ドイツは侵略先の各地で芸術的価値の高い絵画や彫刻の収集に血眼になった。
 琥珀の断片は慎重に解体された。1941年10月、歴史学者のペンスゲン博士や7人が小分けした断片を多くの箱に詰め、運搬を始めた。まず鉄道でラトビアのリガに行き、その後、船でドイツ領ケーニヒスベルクまで運んだ。「琥珀の間」を作り始めたフリードリヒ一世がプロイセン王として即位した運命的なドイツの町に、こうして財宝は舞い戻ってきた。
 だが戦局は、徐々にドイツの劣勢に傾いていく。1944年8月、ついに英国の空襲により、「琥珀の間」が保管されていたケーニヒスベルク城も破壊された。翌45年4月、ソ連軍はついに市街からドイツ軍を追い出した。城に進撃したソ連の兵士は真っ先に「琥珀の間」を探した。だが、それは姿を消していた。


 「琥珀の間」は、燃えてしまったのか、それとも、何者かによって、持ち去られてしまったのか?
 ドイツの博物館長は「燃えてしまった」と証言しているそうなのですが、その他には確実な目撃証言はなく、その館長も1945年12月に病死してしまいます。その数週間後に、館長の妻も病死……
 「終戦間際に、村の鉱山に大量の琥珀を積んだ木箱が運び込まれた」という証言も出てきて、いまだに「どこかに『琥珀の間』が存在しているのではないか」と言われ続けているのです。


 いやしかし、一部屋分の琥珀といえば、ものすごい量になるだろうし、その隠蔽に関与した人も多勢いるはず。本当にどこかに隠されているのならば、いくらなんでも、誰かがどこかで「告白」するか、決定的な目撃証言が出てくるのではないか……そう思うのですけどね。
 『江戸しぐさ』じゃあるまいし、関係者全員が口封じされたとは、考えにくい。
 でも、実際にふとしたきっかけで発見された美術品も少なからずあるし……


 この新書によると、冷戦時代には、東側では国策としてこれらの「ナチスの略奪美術品」や「隠し財産」が捜索されていたようですし、いまでも、『琥珀の間』を探しているドイツの人は、電話で脅迫されたことがあるそうです。
 そんなマンガみたいな話……とも思うのだけれど、ナチスの戦犯たちが、ドイツ降伏後、南米をはじめとする世界各地に逃亡し、そこで生活を続けることができたのは、彼らを支援する「組織」と、それなりの「資金」があったと考えられます。
 となると、「隠し資産」みたいなものは、あっても不思議じゃないですよね。


 そして、「宝探し」と同時に、「ナチスの戦犯探し」が現在も続いているということに、僕は驚きました。
 だって、もう「戦後70年」ですよ。
 当時20歳だった人も、もう90歳。さすがに、いまから捕まえても……手がかりだって、残ってないだろうし……


 ところが、ユダヤ人人権擁護団体サイモン・ウィーゼンタール・センターによると、

 2001年〜13年に世界各国で有罪判決を受けたナチス戦犯は計101人。最も多いのはイタリア(45人)で、米国(39人)、カナダ(7人)、ドイツ(6人)と続く。戦犯は今なお各国に潜伏しており、2013年現在でドイツ国内にも約80人が潜伏中と推測されている。

 とのことなのです。
 21世紀に入ってからも、これだけの人数が「ナチス戦犯」として裁かれているのです。
 やったほうは忘れよう、忘れてもいいじゃないか、と思うけれど、やられたほうは、けっして忘れない。


 考えてみると、これらの「ナチスの財宝」は、もともと「ナチスのもの」ではなかったのですよね。
 人の命よりもずっと大切に扱われていた、これらの美術品。
 第三者としては、誰のものでもいいから、みんなが観られるようにしてほしいのだけれど、当事者にとっては、そうもいかないのだろうなあ。

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