琥珀色の戯言

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【映画感想】スーパーマン ☆☆☆☆

人々を守るヒーローのスーパーマンは、普段は大手メディアのデイリー・プラネット社で新聞記者クラーク・ケントとして働き、その正体を隠している。ピンチに颯爽と駆け付け、超人的な力で人々を救うスーパーマンの姿は、誰もが憧れを抱くものだった。しかし、時に国境をも越えて行われるヒーロー活動は、次第に問題視されるようになる。恋人でありスーパーマンの正体を知るロイス・レインからも、その活動の是非を問われたスーパーマンは、「人々を救う」という使命に対して心が揺らぎはじめる。一方、スーパーマンを世界にとって脅威とみなす天才科学者で大富豪のレックス・ルーサーは、世界を巻き込む巨大な計画を密かに進行。やがて、ルーサーと彼の手下である超巨大生物KAIJUがスーパーマンの前に立ちはだかる。世界中から非難され、戦いの中で傷つきながらも、スーパーマンは再び立ち上がっていく。


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2025年映画館での鑑賞10作目。公開初日の金曜日の夕方からの回でした。観客は40人くらい。

個人的には『スーパーマン』が出てくる映画って、どれも「つまらなくはないが、ものすごく面白いわけでもない」という印象を持っていました。

クリストファー・リーヴさんがクラーク・ケントを演じていた子どもの頃に観た『スーパーマン』は面白かったし、テーマ曲もずっと覚えているのだけれど、近年何度か創られたスーパーマン映画は、1作品つくられては、なんかパッとせずにまたしばらくすると次の主演俳優でリスタート、という閉塞した状況だったのです。

スーパーマンって、クリプトナイトという弱点以外は、強靭さも人格的にも「優等生」で、最近のスーパーヒーロー映画の流行には合わないのだろうか?

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェイムズ・ガン監督が、マーベルからDCユニバースに移り、「みんなが知っているけれど、最近はいまひとつパッとしないコンテンツ」をどんなふうに「再生」したのか、興味があったのです。

この映画を観終えて、僕は心のなかでつぶやいていました。

「ああ、これは『良いスーパーマン』だ……」

観ていて、100%満足、というわけでもないのです。
スーパーヒーロー映画なのに、スーパーマンがあまりにも弱い(というか終始劣勢)。
やっぱり、スーパーヒーローには、ヒーローらしい圧倒的な力を見せてほしいじゃないですか。
もちろん、「俺強え!」だけの、不出来な「なろう小説」みたいなのも、なんだかなあ、とは思うのですが、これはあまりにもスーパーマンの「受難の物語」になりすぎているのではなかろうか。

「極力人を殺さない」というのも「緋村剣心かよ!」とツッコミを入れたくなるくらいのこだわりっぷりで、スーパーマンは、人間だけでなく、どんな小さな命でも見捨てない。そういうことを言い始めると、でも、あれだけ街が破壊されていて犠牲者ゼロはありえない、とか、倒壊した建物の下敷きになって蟻とかは死んでるだろ、とかつい考えてしまうのですけど。

ただ、いまの世の中、2025年だからこそ、「かたくななまでに『正義の味方』であろうとする『スーパーマン』は、とても新鮮に感じるのです。
「利己的なスーパーヒーロー、みんなのためなんてきれいごと、自国ファースト!」みたいなヒーロー映画が、近年はむしろ当たり前のものになってきているので。

露悪的なまでに残酷な行為を辞さない、でもそんなに悪いヤツじゃなくて、結果的に世界を救ってしまう、後には死屍累々。

多様性へのこだわりやメタバースでストーリーが複雑になりすぎるか、「ポリコレ破壊」路線の「メタ・スーパーヒーロー映画」か。

今回のジェイムズ・ガン監督は、「自分が正義だと信じること、みんなの命を助けるために最善だと考えていること」を貫く、オールド・スタイルの『スーパーマン』を描いたのです。

どんな変化球が来るかとバッターボックスで待っていたら、ど真ん中に全力でストレートを投げられ、あっけにとられて見逃し三振、みたいな感じでした。
でも、いい三振だった。

いまの世界には、信じられるもの、本物のスーパーヒーローがいない。
物語のなかにさえも。
現実では、束の間のヒーローが次々に生まれては、SNSなどでその「裏の顔」が暴露され、「人々の敵」に堕ちていく、その繰り返しです。
昔よりずっと、ヒーローの「賞味期限」は短くなりました。
いや、堕ちるまでがワンセットのコンテンツ化してしまった、と言うべきか。

この映画のなかでは、スーパーマンが両親から「託されたもの」が鍵になっています。
生物学的な親と育ての親、それぞれの子どもへの思いがある。
それは、子どもが『スーパーマン』であっても。

そして、親の思いはどうであれ、子どもは、それに縛られる必要はない。
「親ガチャ」という言葉が蔓延している世界で(アメリカでは、日本以上にそうなっているようです)、「自分の人生は、自分で切り開くことができる。過去は変えられないが、未来はこれからの自分の行動で変えていくことができる」という真っすぐなメッセージは、人の子として、そして親としての僕に、すごく刺さりました。

観た人、スーパーヒーローに接した人が、「僕も少しがんばってみようかな」と思う『スーパーヒーロー映画』。
もうちょっとスーパーマンのカッコいいところを観たかったし、現代の日本で、スーパーマンの弱点とか日頃は正体を隠しているというような「お約束」がどれほど共有されているか、という疑問はあるのですが、1から説明して冗長になるよりは、(僕にとっては)これてよかった。

あのクリプトナイトは反則だろう、とは言いたくなりますし、ルーサーのイーロン・マスクっぽさが気になるところはありますが、年取ると「親子の情」的なものに涙腺がゆるくなりがちですね。


この映画をみると、ジェイムズ・ガン監督のこれまでの足跡を思い出さずにはいられません。

Wikipediaより。

2018年7月、ディズニーの会長アラン・ホルンは、ガンのTwitterの投稿に不適切な内容があったとして、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ3作目の監督からの解雇を発表した。

その理由は、2008年〜2012年ごろに投稿された小児性愛、レイプ、人種差別、ホロコーストエイズなどあらゆる不謹慎なジョークについてのツイートが発見されたことだった。ガンは日頃から当時のアメリカ大統領だったドナルド・トランプへの批判を繰り広げており、トランプ支持派の右派ニュースサイトやオルタナ右翼によって過去のツイートを掘り起こされ、拡散されたのだった。ガンは一連のツイートについて謝罪した。


ジェイムズ・ガン監督は、この解雇のあと、結局、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ3作目も監督を務めることになりました。

本人の謝罪とともに、キャスト陣が監督続投を強く求め(一連の差別的な発言については容認できないが、と述べつつ)、世界中のファンも、ジェイムズ・ガン監督の
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観たい、と支持し、マーベル側が折れる形となったのです。

ジェイムズ・ガン監督もまた、「過去のあやまちで未来を閉ざされかけた人間」であり、多くの人々のサポートで復帰できた人なのです。
「人の価値を決めるのは、その生まれではなく、これまでどう生きてきたか、そして、これからどう生きていくのか」だというのは、監督の自省でもあり、人々への励ましでもあります。


www3.nhk.or.jp

この記事のなかで、ジェイムズ・ガン監督のコメントが紹介されています。

ガン監督は映画会社がネットに掲載した動画の中で「私が当初から作りたかったのは善良で優しい心を持った人物を主人公にした話でした。なぜなら私たちが住む世界は決していいとは言えません。『優しさ』というものが最も反逆的でパンクロックだと言われる世界です。だから私が考えるスーパーマンはとても優しく思いやりがある男です。スーパーマンには強さより優しさが大切なのです。結局のところこの映画には切なさがあります。スーパーマンは実在しないからです。でも願わくは映画を見た人たちに自分もスーパーマンになれると思ってほしいです。私の願いはこの映画を見た子どもたちが15年後、スーパーマンになって世界を救ってくれることです」と話しています。


この『スーパーマン』は、とても懐かしくて、古くさい「スーパーヒーロー映画」です。
でも、「『優しさ』というものが最も反逆的でパンクロックだと言われる世界」を生きている僕は、この映画が好きだし、いまの世界で見たかった「物語」だと感じました。


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