琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】生きる言葉 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

スマホとネットが日常の一部となり、顔の見えない人ともコミュニケーションできる現代社会は、便利な反面、やっかいでもある。言葉の力が生きる力とも言える時代に、日本語の足腰をどう鍛えるか、大切なことは何か――恋愛、子育て、ドラマ、歌会、SNS、AIなど、様々なシーンでの言葉のつかい方を、歌人ならではの視点で、実体験をふまえて考察する。


インターネットの発達によって、「言葉をうまく使える力」の重要性は、ネット以前より大きくなってきているのです。
そんなに有名ではない人でも、一生、会うことがない相手に、自分が発した言葉で影響を与えることがあります。
対面であれば表情や言葉の抑揚で「冗談」「ユーモア」だと受け取ってもらえることでも、文字だけのコミュニケーションでは誤解を招くこともあります。

この本、『サラダ記念日』の俵万智さんが(ずっと『サラダ記念日の』と言われることは本人にとってどうなんだろうな、とも思うけれど)、現代の生きる人間、日本人にとっての「言葉」について綴った文章を集めたものです。

ああ、有名な歌人が新書で印税稼ぎに「やっつけ仕事」をしているのかな、と疑っていたのですが、読み進めていくうちに、歌人というのは、「言葉」について、ここまで真摯に向き合っているのか……と驚かされたのです。

 言葉に関しては、私もオタクなところがあるので、先生(言語学者の川原繁人先生)とのおしゃべりは尽きない。音声学的な興味から繰り出される短歌への質問は、刺激的だ。この日、先生が一番喜ばれたのは、サラダ記念日の一首で、いまだに私としては納得いっていない「とある部分」についての話だった。

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 音声学的に言うと「サラダ」と「しちがつ」のS音の響きあいは、意識して作った。サラダ用の野菜が元気になる六月か七月かで迷ったさい、音の響きで七月を採用した。S音は爽やかな印象を与える。その流れでいくと「このあじ」の「じ」が実は気持ち悪い。「じ」の気持ち悪さについては

 義実家(ぎじっか)という語を友が口にするたびにびりりと揺れる夏空

 という歌を詠んだことさえある。濁音は、力強いけど不快でもある。
「味のジをなんとかしたかったんですけど、うまくいかなくて……」と打ち明けたとき、川原先生の目の輝きが半端なかった。


短歌というのは「ひらめき」や「センス」から生まれてくる、天与の(あるいは偶然の)産物だと思っていたけれど、歌人は思いつきだけではなくて、語感やリズムを推敲し、「さ行の響きあい」とか「濁音の効果」などを感覚的・論理的に突き詰めていっているのです。
もちろん、勉強すればだれにでも良い短歌がつくれる、というわけではないでしょうし、「良い短歌」とはどんなものか、というのは、僕も正直よくわからないんですが。
『サラダ記念日』は、ここ数十年の日本で一番ヒットした短歌集であることは事実です。


「言葉が拒まれるとき」という項では、SNSでの、いわゆる「クソリプ」についての考察がされています。

俵さんは、

 それぞれの家の洗剤の匂いして汗ばんでゆく子らのTシャツ


 という歌をX(Twitter)でポストした際のさまざまな「思いがけない反応」について言及しています。

「それぞれの家の洗剤の匂い」がわかるということが、おかしいと知っていただきたいです。大量の化学物質のために、さまざまな健康被害が起きています。

 あの洗剤のにおいが、香害となっています。自然派の環境配慮型の洗剤なら、汗ばんでも香りません。汗で香るのはマイクロカプセル香料です。香害で苦しむ人、万智さんの周りにはいませんか?

 洗剤のニオイが服から揮発して、夏の空気に充満するなんて異常だと思う。どれだけ多くの人が苦しんでいることか。


こういうリプライ、あるよなあ、と読んでいてうんざりしてきました。
反応している人にとっては切実な問題なのかもしれませんし、俵さんも「思いがけない反応だったが、クソリプとまでは感じなかった」と仰っています。
(正直、僕は「うわぁまたいつものクソリプ」と読んでいて思ったのですけど)

言葉が「拡散」されると、さまざまな発信者にとって予想外の反応を引き起こすのです。

 数年前、まだXがツイッターだったころ話題になった「クソリプの分類図」というものがあって、非常によくできているので、これを活用しながらクソリプについて考えてみたい。
 話題になったのは石榴さんという人のツイートで「どんなに当り障りのないツイートも、拡散されるとクソリプがくるという法則について考え、クソリプを分類してみた」とあり、具体例として「砂糖って甘いんだよなぁ」に付く典型的な八つのクソリプを示し、命名している。


このあと、その八つのクソリプの分類とその具体例が示されています。
そのなかに、こんなものがありました。

5 クオリティ要求型「砂糖が甘いというなら塩がしょっぱいということにも言及すべき」


 社会的な活動に力を入れている人の発言に、この手のクソリプが付いているのをよく見かける。たとえば〇〇地区の貧困問題について問題提起をしているツイートに「〇〇地区だけではないですよね」「△△地区のことは、どうなんですか?」というように。△△地区にも問題があると感じるなら、あなたが問題提起すれば? と思うのだが、そういう気配はみじんもない。根底にあるのは、善を為す人への反感や不信感のようなものだろう。善そのものは否定できないので、見落としているとか偏っているとかいう言い方で、なんとか貶めたいのだ。あるいは、自分はこういう問題にも気づいているというマウントが混ざっていたり、そもそもの思想が対立していたりもする。より高いクオリティを相手に求めることで、相手を下げ、何か言った気になるというクソリプである。しかしどういう立場でそのクオリティを求めているのかは明らかにされないままだ。
「その視点はありませんでした。もっとお話を聞かせてください」と歩み寄ることで、建設的な対話になる……という例は、残念ながら私は目撃したことがない。問題を解決することが目的ではなく、相手をもっともらしく攻撃することが眼目なのだろう。その魂胆を見抜いて、自分を消耗させないことも、ひとつの知恵である。


たしかに、こういう「〇〇が足りない」という「クオリティ要求型」のクソリプに、真摯に対応することで建設的な議論ができた例は、僕も見たことがありません。
塩に言及したら、こんどは「酢が足りない」「しょうゆが」「味噌が」と、延々と続いていくだけなんですよね。
問題提起をしたいのではなくて、攻撃するのが目的だから。

それ、何が楽しいの?とは思うのですが、ネットでは相手の姿が見えないので、「特別な事情がある」のか「発言者のことがよほど気に入らない」のか「面白半分」なのか「他の原因でイライラしていて、何かにその苛立ちをぶつけたい」のかは「こちら側」からはわからないのです。

「なんであの人の言葉には反応するのに、自分は無視されるの?」と思われることもある。
単に「時間がなかったからリプライしなかった」だけであっても、それは相手には見えないのです。

ネットに関してはとくに「あまりなんでも悪いほうに考えないほうがいい」と僕は思います。
「実生活ではまったく接点がないような『すごい人(良い意味でも悪い意味でも)』とつながってしまう、というのも、ネットの特性です。

 現実のあなたの発言は「砂糖って甘いんだよなぁ」というようなシンプルなものではないだろう。だからクソリプも、ここに例示されたものほどわかりやすくはなく、邪悪さは見えにくい。でも、本質は同じこと。
 トゲのある言葉を投げられて、傷ついたり消耗したりせぬよう、クソリプの構造を知って見抜く目を持っておくのは、賢明な自衛策だ。ネット時代を生きる知恵と言ってもいい。そして万が一にも、自分がクソリプ製造機にならぬよう気をつけること、もちろんである。


好き好んで「クソリプ製造機」になっている人はいないのではないか、と思うのですが、人は、置かれた状況やストレスへの耐性によって、「なんでこんなことをやってしまったんだ」という行動をとることもあるのです(僕自身にも苦い経験があります)。
「言葉をうまく使う」のはすごく大事だけれど、「あえて言葉に出さないように我慢する」ことが、それ以上に必要な時代なのかもしれません。


「短歌AI」についての、こんな話も出てきます。
2024年4月に行われた、木下龍也さんの『あなたのための短歌集』を学習した「木下さんAI」を用いたイベントが行われたそうです。このイベントでは、依頼者が提示した「テーマ」に沿って、人間の木下さん本人がつくった短歌と「木下さんAI」がつくった短歌のなかから選ばれた作品が、それぞれ紹介されています。

 また、こんな依頼文もあった、
「病気であまり家から出られません。早く元気になりたいです。こんな自分に短歌ください!(埼玉県・20代)」
 応えた木下さんの一首は、こうだ。

 それまではおやすみいつか砂浜でいっしょに疲れようね 靴より


 家を出るときの相棒としての靴、その靴からの手紙というかメッセージというテイで詠まれている。疲れようねという語りかけが素晴らしい。ありがちなのは、遊ぼうねとか走ろうねとかいう動詞だろう。でも、遊んだり走ったりした後の時間をも共有する感じが「疲れようね」にはある。そして、一般的にはマイナスイメージの「疲れる」ということが、病気でずっと家にいる人にとっては、とんでもなく贅沢なことなのだと、読者は気づかされる。木下さんも「疲れるっていうのは、元気があるから疲れられる」と言っていた。
 対するAIの短歌は、ややぎょっとさせられるものだった。

 「自由」と呼ぶのはきみがきみのためにつくる小さなケージだけど


 一読したとき、おいおい、なんてことを言ってくれるんや、喧嘩売っとんのかと思った。家を出て自由になりたいと言っている人に対して「きみの考えている自由は、外に出るってことなんだね。でも、それを自由と思っているかぎり、それ以上の自由はないし、それって自分をケージに閉じ込めているようなもんだよね」と言っているのだ。
 木下さんもやや顔を曇らせ、優しくはない……発見の歌ではあるけれど、これを自分が思いついても依頼者には送らないかなと言っていた。現実に家というケージから出られない人に対して、世間もケージだよとはあんまりな言いようではある。
 だが、何度も読んでいるうちに、少し違う見方もできるのではと思い始めた。何かを「自由」と定義してしまうと、それが枠組みになって、それ以上やそれ以外の自由は見えなくなってしまう。依頼人が「外に出ることが自由」と定義したからこそ、「家の中にいることは不自由」なのだ。むしろ定義することが、自由の意味を狭めているのではないだろうか。外に出なくたって、見方によってはきみはなんらかの自由を手にしているのかもしれないよ……そんな揺さぶりとも受け取れる。全体が字足らずなのも、不安定な気分をうまく象徴しているように感じられる。うん、これ、悪くないのでは? と最終的に私は納得してしまった。やるじゃないか、AI。


どちらが正解か、あるいは正解があるのか、というのはなんとも言えないのですが(依頼者にとって「こっちが好き」というのはあるかもしれませんけど)、僕は、僕の現在の立場からは、AIの歌のほうが良いのではないか、と思ったのです。一昔前のロックの歌詞みたいではありますが。

木下さんは「優しくはない、これを自分が思いついても依頼者には送らない」と仰っていて、それは僕にも理解できます。
現実に外に出られないで苦しんでいる人に「考え方を変えてみたら」というのは、相手にうまくはまれば良いけれど、「そんなふうに考えられれば苦労しないよ、それは自由に外に出られる人の傲慢な押しつけだ」と絶望させてしまうリスクもある。
でも、依頼者は、気遣われることに、慣れて、もう疲れてしまっている人なのかもしれない。

「優しくなければならない」「相手を傷つけないように」というのは、現在の人間の美点であるのと同時に、限界にもなっている。
「自分も相手も人間で、発した言葉には影響も責任もあり、自分でもその結果を受け止めなければならない」というのは、怖いことではありますね。
AIは、そういうプレッシャーを感じないからこそ、より無遠慮で幅広い表現ができるのです。
AI自身は、「SNSで炎上」しても、それを苦にはしないだろうから(開発者が責められる可能性は少なからずあります)。

VTuberの隆盛をみていると、なんだかもう人間どうしが直接言葉で励ましあったり、傷つけあったりすることに、多くの人が疲れてきたのではないか、と僕は感じているのです。
VTuberには「中の人」がいるのだとしても、「人工的なキャラクター」を挟むだけで、リラックスしてやりとりできてしまう。

とはいえ、所詮みんな人間をやっていくしかないのです。
「おれは人間をやめるぞ!ジョジョ――――ッ!!」というのは現実では難しい。


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