琥珀色の戯言

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【読書感想】客室乗務員の誕生: 「おもてなし」化する日本社会 ☆☆☆☆

内容紹介
日本独自の発展を遂げ、就職先として盤石の人気を誇る「CA」(ルビ:キャビン・アテンダント)。我々はそこにどんな期待を投影してきたのか。エアガール、エアホステス、スチュワーデス……呼称/役割ともに変遷してきた日本の客室乗務員の歴史を通観し、「接客マナー」と「自分磨き」の技法と思考が独特な「おもてなし」の源流となっていく過程を考察する。


 「スッチー」「女子アナ」が、多くの男性にとって、憧れの職業だった時代がありました(今も憧れている人は多いかもしれませんが)。
 僕の子ども時代、『スチュワーデス物語』を見ていた頃は、女性の職業と見なされていたこともあり、憧れというより、堀ちえみさんが演じていた松本千秋の演技のあまりの大仰さにニヤニヤしたり、風間杜夫さんの「教官」の恋人が手袋を口で外しながら「ヒロシ~」と迫ってくるシーンを学校で真似したりしながら、エンターテインメントとして消費していた記憶があるのです。

 日本初の客室乗務員は、エアガールと呼ばれた。
 「又さん大臣」の愛称で人気を博した小泉又次郎逓信大臣(当時)を乗客第一号に迎え、1931(昭和6)年3月に初飛行をおこなったエアガールたちは、雲の下を飛ぶために大きく揺れる小さな旅客機で、いまでは考えられない「業務」を期待されていた。
 エアガールは太平洋戦争を目前に姿を消したが、終戦後しばらくして復活した客室乗務員は、ときにエアホステスと呼ばれ、やがてスチュワーデスという名で長らく呼ばれてきた
 いま日本の客室乗務員は、CA(シーエー)と呼ばれる。
 1980年代末に生まれ、本書で後述する背景から21世紀に広まっていったその呼称は、客室乗務員を意味するCabin Attendantに由来するという。
 しかし「CA」は日本で誕生した、この国ならではの呼称である。
 たとえば英語圏ではFlight AttendantあるいはCabin Crewと呼ぶのが一般的であり、その略称はFAやCCとなるため、海外の航空関係者に「シー・エー」といっても、まず通じない。「CA」は和製英語の一種であり、そこには独特な響きがある。


 あらためて考えてみると、僕にとっては長年「スチュワーデス」だったのが、いつのまにか「CA」になっていた、という感じなんですよね。
 この新書では、日本では、飲食の提供とともに、機窓案内(バスガイドのような仕事)をする「エアガール」として誕生した客室乗務員が、どのようにして「憧れの職業」になっていき、「おもてなしの達人」として、世の中に認められるようになっていったのかが紹介されています。

 世界で最初のスチュワーデスは、1930年にアメリカのボーイング・トランスポート社で誕生したのですが、しばらくは看護師の資格が必須だったそうです。
 あと、昔の飛行機では、左右のバランスをとるために、乗客の体重が左右同じくらいになるように席を決めていた、という話にも驚かされました。

 ここで戦前のエアガールと比べると、戦後の客室乗務員には戦前から継承した業務と廃止した業務があることに気づく。まず継承した業務のうち細心の注意を要したのは、客室内の重量バランスだったという。客室乗務員の業務内容を紹介した雑誌『丸』の1953年11月号の記事によれば、出発直前に「その日の旅客の人数によって、ウェイティング・バランスがとれるよう、旅客の配置に注意しなければならない」ことが、「大事な仕事」だったという。

 航空機は、空中に浮くものである。前部が重すぎても、後部に荷がかかっても、バランスがとれなくなる。旅客が、地上を走るバスか列車に乗るような気持になって、ドカドカと気ままに好き勝手な場所に乗り込んでしまうと、重量がその方にばかりかたよって、安全でなくなる。人数によって、どの席とどの席に腰かけてもらうか、素速く胸の中で計算しておかなくてはならない。そして旅客を迎え入れるのである。


 この重量バランスの管理は、離陸前だけでなく飛行中にも注意が必要だった。たとえば機窓から富士山など名所が見えたとき、乗客が立ち上がって一方の窓に集まることもあり、「その都度パイロットからピーっと注意のベルがなった」という。飛行機が大型化して乗客が増えた戦後の客室では危険が増したため、まもなく「景色の案内も差し控えるようにしました」と、戦後のエアガール一期生の小野悠子は回想している(日本航空協会編、2010)。
 こうした安全上の理由から、飛行中に見える眼下の景色を説明する機窓案内の業務は再検討された。さらに太平洋を飛ぶ国際線の機窓からは延々と海しか見えないため、戦前のエアガールの主な任務だった機窓案内は国際線で廃止され、やがて国内線でも省略されていった。


 日本の航空会社は、国際線で他社と差別化するために、着物でのサービスを行い、客室乗務員は、狭い機内のトイレで短時間で着替えるトレーニングを受けるようになりました。
 そして、航空業界の急激な発展にともない、「英語が堪能である」「身元確実」な良家の子女を採用するだけでは間に合わなくなり、自社の訓練センターで「客室乗務員を育成する」体制をつくりあげていったのです。
 オイルショック後の1977年度からの採用試験には、それまでになかった体力テストが課せられるようになり、一次通過者の27%が体力テストで不合格になったそうです。

 第一次オイルショックの影響から二年連続して客室乗務員の新卒者採用を中止した日本航空全日空は、1977(昭和52)年度の採用から募集を再開したが、このころ両社の客室乗務員たちの様子が少しずつ変化していったという。なかでも日本航空では退職者が減少し、在職年数が延びていく傾向が顕著になっていった。
 たとえば1972(昭和47)年度には一年間で約30%もの客室乗務員が退職したが、その割合は5年後の1977年度に13%、そして1979年(昭和54)年度には9%まで低下した。そして1970年代の初頭には平均して3年程度だった在職年数も、1979年度には4年6か月まで延び(読売1980年8月6日)、1980年代の初頭には5年を超えたという。こうして「辞めないスチュワーデス」が増え続けたため、航空各社は新規採用枠を縮小するかわりに、現役の客室乗務員たちの力を活用する方向へ舵を切った。
 なぜ1970年代の後半から、客室乗務員たちは長く飛ぶようになったのだろうか。それは前章でもみたように1974(昭和49)年に「未婚条項」が撤廃され、結婚後も退職を強いられずに勤務できるようになったことが大きいと考えられる。また1970年代を通じて昇進制度が徐々に改正され、客室乗務の責任者であるチーフ・パーサーを頂点とする役職に、女性の客室乗務員が就けるようになったこと、その反対に男性の客室乗務員が1975(昭和50)年度以降は採用されなくなったことなども作用していた。
 こうした制度上の変化とともに注目すべきは、「辞めないスチュワーデス」たちの意識の変化である。たとえばこのころから客室常務の仕事に自信と愛着を抱き、それを自らの言葉で主体的に語り、さらに退職後の人生でも積極的に活かそうとする客室乗務員たちが多数、現れるようになった。


 良家の子女の結婚前の腰かけ仕事だった時代から、「普通の家庭」から訓練センターで厳しいトレーニングに耐えて、「客室乗務員になることができた」人たちの時代への変化は、「客室乗務員」という仕事や会社への愛着を深めていったのです。


 ドラマ『スチュワーデス物語』の影響も、かなり大きかったことが紹介されています。

 この「スチュワーデスの物語」と「わたしの物語」という違いは、ドラマ『スチュワーデス物語』の人気を理解するうえで重要な鍵となる。とくに「ドジでノロマな亀」が厳しい訓練を経て「一人前」に成長していくという「わたしの物語」にとって、主人公を演じた16歳の堀ちえみの『くさい演技』は、見事なまでに合致していたと考えられる。
 そうして「テレビ業界では『幼稚でばかばかしい』『時代錯誤』といった声が少なくなかった」とさえいわれた同番組の視聴率は、初回の17.4%から回を重ねるごとに上昇していき、「最終週には30%にもなった」という(読売1984年8月10日)。加えて放送された半年間で10万通を超える手紙がてれび局に届き、番組が終了した翌週にあたる1984年4月3日の『読売新聞』には、次のような視聴者の投稿が掲載された。

スチュワーデス物語」は27日終わったが、本当に楽しかった。支離滅裂な筋立て、突拍子もないセリフ、学芸会的な演技と、普通ならマイナスになる要素ばかりなのに、それらがかえって魅力になる不思議なドラマだった。何事にも精いっぱいぶつかる主人公千秋に夢と勇気を与えてもらった。

 『スチュワーデス物語』に熱中した大勢の視聴者たちは、主役の「くさい演技」や古風な恋愛関係に嘘くささを感じつつも、むしろそれゆえに純化されていくファンタジーとしての「わたしの物語」を共有し、半ば笑いながら半ば共感して、「ドジでノロマな亀」の成長記を自分の物語として享受していたのではないだろうか。


 この投稿は、褒めているのだろうか? という感じなのですが、まさにこんなドラマだったんですよね、『スチュワーデス物語』。あの時代でも、すでに「時代遅れの古臭いドラマ」だったのだけれど、不思議な魅力があったのだよなあ。

 この後の時代では、「自己実現として、スチュワーデス(CA)になること」、「おもてなし」「マナー」の達人として珍重されていくことが紹介されています。
 良い時代ばかりではなくて、「時給制アルバイトの客室乗務員」の導入などで、待遇面が厳しくなったこともあったのです。

 「CA」「スチュワーデス」「エアガール」、なぜ、日本で(とくに女性の)客室乗務員が「憧れの職業」になっていったのかを、その歴史とともに知ることができる好著だと思います。


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