琥珀色の戯言

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「首吊り自殺体写真」は、いじめ自殺を防げるのか?

いじめ自殺問題。一人の医師の暴論〜首吊り自殺体のリアルな写真を当事者達に見せよ(木走日記 (11/15))
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20061115/1163554246

うーん、別に「暴論」というほどのものでもないし、一部の自殺志望者および「いじめている人」には、効果があるかもしれません。
たとえば、「戦争で悲惨な亡くなりかたをされた人」の写真を見ることによって、多くの人は「こんな悲惨なことになるのなら、戦争なんてしないほうがいい」と思うわけです。もちそん、その「効果」は人それぞれで、「戦争反対運動」を積極的にはじめる人もいれば、「戦争が起こらなければいいなあ」と漠然と願っている人もいるでしょう。
ただ、実際のところ、「酷い死体写真を見ていじめをしなくなる人」というのは、所詮、「そんな写真を見なくても、いじめなんかしない人」である場合がほとんどです。世の中にがグロ写真が溢れていますし、このネット社会であれば、僕が想像するよりはるかに、今の子供たちは「衝撃映像」を見慣れているはずです。まあ、それでも「やらないよりはマシ」かもしれません。でも、そういう写真を見てしまうことによるトラウマみたいなものを考えると、はたしてそれが子供全体、社会全体にとってトータルでプラスになるのは、なんともいえませんが。「いじめている子」「いじめられている子」限定公開というのも、「じゃあ、その基準をどうやって判定するのか?」と考えこんでしまいます。
だいたい、「死体の写真」と言っても、実際のところ、人間が本当に衝撃を受けるのは、「自分の死体」(は見ることができませんね)、「家族・友人の死体」、「自分にとって感情移入できるような要素を持っている死体」だけです。最後の例についてもう少し詳しく申し述べておくと、小さな子供を抱えている親たちは、「子どもの虐殺写真」に対して心から感情移入してしまうでしょうし、若者は「バックパッカーとしてイラクに冒険しに行った青年の死」に対して感情移入しやすいはず、ということです。

ただ「自殺する側」にとっての抑止効果としては、正直疑問というか、あまり意味がなさそうです。僕も自殺したことがないから本当のところはわからないのですが、僕の経験であるとか、多くの「本当に死のうとした人」の話からすると、「首吊り死体の写真を見たくらいで死ぬのを思いとどまるような人の大部分は、「死にたいと言っていても、本気では死なない人たち」なのではないでしょうか(ただし、「自殺ごっこ」でも本当に死んでしまうケースは少なくないのだけれど)。
自殺する人の多くは「なるべく綺麗に死にたい」と思っているのでしょうが、その一番の目的は、「死んで、いろんな辛いこと、めんどうなことが綺麗さっぱり無くなってしまうこと」であって、「綺麗な死体になること」じゃないのですよね。死のうという人は、「死ねばすべて無くなる」と思っているのだから、「死んだらこんなにグロい姿に……」なんていうのは、あまり説得力がないでしょう。まあ、「できればもうちょっと外見が良い死にかたにしようかな」と思うくらいのものです。
「こんなに残酷な状態になってしまうから」というやり方で「翻意」できる人って、所詮、そんなに追い詰められていない人だけなのではないでしょうか。
「命の尊さを知らないから」ではなくて、「命の尊さよりも現実の辛さのほうがはるかに上回ってしまう」から自殺してしまう人がほとんどなのでしょうから、「命の大切さをより教える」ことよりも、現実のほうをもう少しどうにかしてやることを考えるべきでしょう。

でも、僕はこういうふうに「いじめをなくす方法について考える」ということそのものは、非常に大事なことだと思うのです。「どうせ、いじめはなくならないよ」という「わかっているつもりの人」の諦めきった態度こそが、いじめの温床になっているのではないかと。

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