琥珀色の戯言

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ルネサンスとは何であったのか ☆☆☆☆


ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
そこには、混迷を脱した人びとがいた。30年におよぶルネサンスへの熱情を注いだ最新の文明論。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアと、ルネサンスが花開いた三大都市を順にたどりながら、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ、フリードリッヒ二世やアルド・マヌッツィオなど「ルネサンス」を創った人びとの魅力と時代の本質をわかりやすく説いた、最高の入門書。

 「ルネサンス」とは何であったのか?
 うーん、ヨーロッパの中世に、ギリシャ・ローマ時代の思想や芸術が「見直された」こと、かな……
 というくらいの答えしか僕はできなかったのですが、この本を読んでいくと、「ルネサンス前のキリスト教文化圏の状況」や「なぜ、ルネサンスが起こり、支持されたのか?」「ルネサンスはどのような人々によって成し遂げられたのか?」という「歴史の流れ」がよくわかったような気分になりました。
 塩野七生さんの著作に関しては、史実のところと塩野さんの考えの部分がはっきりと区別して書かれていないところがあり、「どこまでが本当の歴史なのか?」が不明瞭な面もあるのですが(そしてそれが、塩野さんの著作の魅力でもあります)、ここまでわかりやすく「ルネサンス」について書かれた本は他に無いのではないかなあ。

 僕は、この作品のなかで採り上げられた人物のなかで、塩野さんに聖フランチェスコと並んで、「ルネサンスの扉を開いた人物」として挙げられている、神聖ローマ帝国皇帝・フリードリッヒ2世という人に、とても興味を持ちました。

 フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国皇帝)〜Wikipedia

新皇帝となったフリードリヒは聖地奪回を教皇に宣誓した。アイユーブ朝スルタンのアル・カーミルは使節をシチリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はそこでキリスト教の教会に描かれたイスラーム教徒の像や、アラビア語の刺繍の入ったマントを着る皇帝フリードリヒを見て驚愕する。報告を受けたアル・カーミルはフリードリヒに書簡を送り、ここから2人の交友が始まった。2人は十字軍に関する話題を避け、お互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題をアラビア語で行ったという。しかし教皇からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなかったフリードリヒは、武力によってではなく、アル・カーミルとの交渉によって聖地を回復した。この交渉には5ヶ月近い日々が費やされ、最終的にお互いが大きく譲歩することで和解した。

和平協定の大まかな内容は以下の通り。

イスラームの君主(スルタン:アル・カーミル)は皇帝(神聖ローマ皇帝:フリードリヒ2世)にエルサレムの統治権を譲る。
・岩のドームはイスラーム教徒が管理する。
・この和平協定を破るような軍事行動を禁じる。
・もしキリスト教世界でエルサレムへ軍を送ろうとする動きがあれば、神聖ローマ皇帝イスラームの君主を守る。
イスラームの威厳と尊厳を理解する者ならば、たとえキリスト教徒であっても岩のドームに立ち入れる。

エルサレムに入城したフリードリヒ2世は、聖墳墓教会エルサレム国王として戴冠した。このとき岩のドームを訪れたフリードリヒに配慮したイスラーム教徒たちが、定時の祈りの声を挙げないようにした。これを聞いたフリードリヒは不快感を示し、「私はエルサレムへ着いたら、イスラーム教徒の祈りの声を聞くことを楽しみにしていた」と言った。彼の気持ちを知ったイスラーム教徒らは祈りの斉唱をしたという。

これにはフリードリヒ2世の語学的才能と外交の手腕が生かされており、パレルモの宮廷におけるイスラム教徒との接触で養った合理主義がよく表れている。しかし、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の行ったイスラム教徒との交渉を背教と非難したため、教皇派と皇帝派の争いはエルサレムに持ち込まれ、戴冠式に出席した聖地騎士団はドイツ騎士団だけだった。

 フリードリヒ2世は、当時のキリスト教世界の概念からは大きく逸脱した「コスモポリタン」であり、あの時代においては、明らかに「異常な君主」だったのです。彼のような皇帝の登場が、「ルネサンス」の引き金になったというのは、まさに塩野さんの慧眼なのではないかと。
 歴史というのは面白いもので、ごくまれに、「その時代の常識を逸脱した民族融和主義者の権力者」が出てくることがあるんですよね。

中国には、苻堅(前秦の世祖)という悲劇の皇帝がいました。

苻堅(Wikipedia)

華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、氐族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、三代皇帝苻堅が漢人王猛の助けを借りて376年に華北を統一した。

苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないと言う事で、自分たちの本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ氐族を移すと言う事を行った。また前述の王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位につけていた。

苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし王猛はこのやり方で民族対立が納められたとは思えず、また漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険である。との見方を持っており、度々苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。

華北統一の一年前の375年に王猛は、「晋を攻めないように。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だから何れ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように。」と遺言して死去した。

しかし苻堅はこれに従わず、378年に東晋の襄陽を攻めて、翌年の二月に陥落させる。この時に襄陽を守備していた梁州刺史の朱序が捕虜となるが、苻堅はこれを赦して度支尚書(財政担当大臣)としている。その後、前秦軍は更に東へ進むが、東晋の謝安の軍に押し返される。

苻堅は東晋討伐を群臣に図り、一族・家臣皆が反対したが、ただ慕容垂のみが賛成し、苻堅は南征を決心する。

結局、理想主義者・苻堅は南征で破れ、最後には姚萇に殺されてしまうのです。
まあ、苻堅よりは、フリードリヒ2世のほうが、より「現実主義的」であったようには思われますが。

……と、かなり本筋から逸脱してしまいましたが、歴史、とくに世界史に興味がある人にとっては、かなり楽しめる本ではないかと。
ただし、実はこの本のなかでは、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロメディチ家の人々など、一般的に僕たちが「ルネサンスの主役」だと考えている人たちに関しては、「この人たちのことは、もう今さら詳しく語るまでもないですね」という感じて、けっこう簡略化されて描かれています。この本での、フリードリヒ2世を語るときの熱意に比べると、ダ・ヴィンチについての話は、「こんな『常識』は、軽く触れておくだけでいいですよね」という感じです。これは、「一部の天才たちだけが、ルネサンスを起こしたわけではない」という塩野さんの見解を反映しているのではないかとも思うのですが、「入門書」と書かれてはいるけれど、この時代の歴史や人物の予備知識があまりに乏しいと、内容についていけない可能性も高いのではないかと。

僕は新婚旅行先がイタリアで、フィレンツェにも行ったのですが、この本を先に読んでいたら、あの絵やあの建物も、もっとちゃんと見たのになあ、なんて、ちょっと残念ではありました。

見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした。

 こういう欲望が爆発する背景には、「見られない」「知ることができない」「わからない」時代が続いていたという背景があったということ、そして、絵や彫刻の作品だけが「ルネサンス」ではなかったのだ、ということが、とてもよくわかる本。

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