琥珀色の戯言

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【読書感想】昭和残影 父のこと ☆☆☆☆


昭和残影  父のこと

昭和残影 父のこと


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
本の雑誌」の創刊者であり、北上次郎名義で数々の鋭い書評を発表しつづける目黒考二。その父・亀治郎もまた、古本屋めぐりが趣味で、書物をこよなく愛する寡黙な男だった。だが、ある一冊の本がきっかけで、息子・目黒考二は父の秘められた過去を知る。戦前、19歳の亀治郎は非合法の政治活動で投獄。その後結婚するも、その女性と死別していた―母とは再婚だったのだ。自分が知らぬ父の青春時代の終焉こそが、「家族」の歴史の始まりだった…。


 目黒考二さんといえば、僕にとっては、椎名誠さんや沢野ひとしさんとともに『本の雑誌』をつくってきた人なのです。
 椎名さんが創刊期からのことをずっと小説として書いておられるのも読んできましたし、なんというか、ずっと、「本を読みたいばかりに会社を辞めてしまった、活字中毒の30歳くらいの男」のままのイメージなんですよね。
 目黒さんは1946年生まれですから、もう70歳。
 そうか、もうそんな年齢なのか……
 僕が大学時代に『本の雑誌』に出会ってから、もう25年くらい経っているから、冷静に考えてみれば、それはそうだ、という話なのですが。
 『本の雑誌』の創刊は1976年で、目黒さんが発行人だったのは、2001年までだから、発行人としての仕事を終えてから、15年も経っているのです。

 父が若いころに刑務所に入っていたことを聞いたのは、私が高校1年生の夏休みだった。その夏、母と姉が旅行に出かけ、大学生になった兄もどこかに行ってしまい、サラリーマンをやめて孔版印刷屋を開業していた父と二人だけで一週間を過ごしたときのことである。二人きりの日々であるから、いろいろな話をした。孔版印刷屋といっても、たった一人の印刷屋であるから、経費節減のための封筒の印刷を依頼されると、その封筒作りから父の仕事は始まる。その封筒作りがなかなかうまいのである。糊をさっと塗って、手際よく折っていくともう封筒のでき上がり。その夜も、父の手元を見ていて不思議に思った私は「どうして封筒を作るのがそんなにうまいの?」と尋ねると「刑務所の中で若いころ、こればかりやっていたんだ」と父は言う、私が高校生になるのを待っていたのか、淡々とした口調であった。


 この本、目黒考二さんが、亡くなられたお父さんのことを書かれているのですが、読んでいて、僕も自分の父親のことを思い出してしまいました。
 でも、この本って、「お父さんの内心に斬り込む」というスタンスでは、まったくないんですよね。
 目黒さんは、お父さん自身が書いたメモや、親戚たちの証言、そして、さまざまな文献や資料にあたりつつ、「自分の父親が生きてきた、『昭和』という時代の風景」を再構築していっています。
「お父さんの話」のはずなのに、ここまで、当時の建物の位置関係や、世の中の動静について、詳細に書く必要があるのだろうか?と、読んでいて、ちょっと可笑しくなってくるのです。
 川崎にあった競馬場についての話が何ページにもわたって続き、僕は競馬大好きなので「さすが競馬好きの目黒さん、お仲間!」と感心しながら読みましたが、「お父さんの話」として読み始めた人にとっては、「なんて長い脱線なんだろう……」と呆れてしまいそうです。
 昔の川崎の街のことや、父親が住んでいたと思われる地域の地理については、延々と書かれているわりに、終戦後の亀治郎さんの生活などについては、まるで歴史年表の出来事のように、淡々と、簡潔になぞられているのです。


 目黒さんの父親である・目黒亀治郎さんは、「辞書マニア」であり、俳句をずっとやっていて、大の本好きだったけれど、蔵書は辞書と俳句と自然科学の本が大部分で、小説の類いは読んでいるのを見たことがなかったそうです。
 老後の趣味は「辞書集めと、それぞれの辞書での語釈の違い(英和辞書が主だったそうです)の比較」。
 それも、仕事とか、誰かに見せるため、とかでは全くなくて、ただ、「それを自分のノートに記録していくことが、楽しみだった」のだとか。

 家中に本があふれていた。県立横浜第一中学を四年生のときに中途退学したのち、職を転々とした父は、独学で英語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語などの語学を学び、フランス語を除く各国語の辞書が山のようになった。辞書など一冊あればいいのではないかと疑問に思って尋ねると、それぞれの辞書がどう異なるのか説明してくれるのだが、幼い私にはその違いがよくわからない。父は毎晩のように原書を読み、わからない単語が出てくると辞書を引き、それをノートに記すのだ。昼間の仕事で疲れているのだから、夜ぐらいは休めばいいのに、と幼い私には不思議だった。あるとき、それを父に質問すると、こうしているときがいちばん落ちつくんだという。私には勉強しているとしか思えない光景なのだが、彼には違っていたということだろう。何冊もの辞書を引き、その語意が載っているかどうかを調べて比較するのが、父の毎晩の骨休めだった。


 亀治郎さんは、研究者でもなく、身につけた外国語を活かすような仕事をしていたわけでもなかったそうです。
 こうして「本を読み、言葉に触れること」が好きだったのです。
 いや、「好きだったのです」って僕は書いたのですが、「それだけで満足できる人間、せっかく学んだ外国語を、見せびらかさずに生きていける人間って、存在するのだろうか?」と、割り切れないんですよね。
 それが「手段として」なら理解できても、「ただ、そうしたい」という気持ちは、少なくとも、僕にはよくわからない。

 残念なことは、友人が少ないこと、狷介なこと――などは受け継いだものの、辞書に対する好奇心と熱情、どういう亀治郎の血を私がまったく受け継がなかったことだ。

 目黒考二さんは、「自分と父親の違い」を拾い集めようとしているけれど、「記録魔」というか、「叙情よりも叙事を愛してしまう傾向」みたいなものは、ものすごく似ているのではないか、という気がします。
 ものすごく感傷的に「お父さんのこと」が書かれた作品ではなく、「お父さんの道のりを辿ることをきっかけに、当時の日本、とくに川崎や横浜といった地域の様子を、なるべく丹念に描写することにハマってしまった」のではないか、と。
 ああ、でも、こんなふうに「感情よりも、状況を客観的に記録すること」こそが、目黒さんにとっての「誠実な父親と自分への向き合い方」なのかもしれません。
 自分の父親とはいえ、いや、自分の父親だからこそ、その内心に踏み込んでいくことに、ためらいが大きかったのではなかろうか。
 

 亀治郎は私の記憶では寡黙な人で、はしゃぐということがただの一度もなかったが、龍起や修二には自慢話をしたり(これが意外であった。私は一度も聞いたことがない)、日本紙化を退社して孔版印刷屋を始めるときには「一緒にやらないか」と彼らを誘ったりしたという。そんなこと、初めて聞いた。
 私が幼いときなら父の話し相手にはならなかったろう。しかし、私が高校生や大学生、社会人になってまでもしばらくは一緒に暮らしていたのだ。そういう暮らしのなかで胸襟を開くということが亀治郎には一度もなかった。昔話はしないし、自慢話もしないし、声を荒立てるということがない。ただ黙々と仕事をし、辞書を読んでいるだけであった。だから、龍起や修二に聞く亀治郎の姿は実に意外である。
 亀治郎は兄鶴市に比べれば寡黙な人だったと、龍起や修二も言うのだが、私からすると彼らの前の亀治郎はすこぶる饒舌だ。妹の子に亀治郎はとことん気を許していた、と言えるかもしれない。彼らがしょっちゅう我が家に遊びにきていたのも、そういうことだろう。正直に書くと、少し妬ましい。私には話さなかったことを、龍起や修二には話していたからだ。

 
 目黒さんとお父さんの関係は、目黒さんの子ども世代である僕からは、父親と息子としては、必要十分レベルに親密だったと思います。
 でも、当事者にとっては、「なんで自分の実の父親のはずなのに、いとこの2人のほうに、本音を話しているんだろう?」とは思いますよね。
 それは、わかる。
 その一方で、「親子という近い関係だからこそ、自分の悪いところを見せたくない、という気持ち」もわかる。
 たぶん、目黒考二さんも、理性としてはわかっているけれど、感情として、受け入れがたかった、のではなかろうか。


 ちなみに、目黒さんは、自身の生活ぶりや家族との関わりについて、エッセイにこう書かれています。

 私の場合、月曜から金曜までは仕事場に泊まり、土日は競馬場に行くから、自宅に帰るのは日曜日の夕方だけだ。そこで一泊して、また月曜の昼には出てくるので、自宅に滞在するのは毎週18時間のみである。自宅にいる時間が著しく短いそういう生活を送って、もう十年以上になる。


 妻だけではなく、子ども(たち)がいたにもかかわらず、仕事での長期出張というわけでもないのに、この生活、だったのか……
 目黒さんの子どもたちには、どう見えていたのだろうか。


 親子っていうのは、ほんと、難しいですよね。
 だからこそ、ときには、ちゃんと聞いておかなければならないこと、言い遺しておかなければならないこともある。
 子どもの頃は、親のことがよくわからないし、親になってみると、子どものことが、よくわからない。
 ものすごくまわりくどくて、これは本当に「お父さんのことを書いた本」なのだろうか?とも思う。
 ただ、「息子として、お父さんのことを真剣に書こうをしたら、こうなってしまった」というのは、ものすごく伝わってくるんですよ。
 

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