Kindle版もあります。
誰にでも
ねぎらわれたい夜があるつい頑張っちゃう人
必携の書をお届けします今日の疲れは、今日のうちにさよなら
自分を慈しむセルフケア・エッセイ48篇
こういう、「日々頑張った自分を褒めてあげる、あるいは、人生に行き詰まったような気がしてしまう夜に、『自分だけじゃないんだ』と少しホッとできるエッセイには、確実に需要があるんだろうな、とは思うのです。
でも、僕自身は、褒めてもらえるほど自分が頑張っているとも思えないし、誰かにねぎらわれることにも慣れていなくて、いまひとつ「共感」しづらかった。
いや、共感はできなかったけれど、こういうエッセイを求めている「頑張っている人」が、世の中にはけっこういるんだな、と参考にはなりました。
「癒し」とか「スピリチュアル」って、どうも苦手なのです。
ただ、このエッセイ集には、そんな「きれいごと」だけではなく、著者のジェーン・スーさんのこれまでの人生での「(他人にとっては)理不尽かもしれないけど、受け入れがたくて、心に引っかかっていたものたち」が、書かれていて、読みながら考え込んでしまうところがいくつもありました。
つい先日のこと、恐ろしいことに、15年以上前に別れた相手に、突然怒りが湧いてきた。執念深さに自分でもびっくりだ。いや、執念深いわけではない。だって、ずっと怒っていたわけではないのだもの。どちらかと言えば、そんなことはずーっと忘れていた。
私はなぜ「ここで決断できないような子は好きじゃないな」なんて言われたことを、今さら思い出してしまったのだろう。シチュエーションはこうだ。当時。私は身の丈を大きく超えた仕事のオファーを受けていた。夢のような話だった。22歳で働き始めた当初から「いつかやりたい」と思っていたことに近いし、いまの部署では絶対にできない仕事。しかし、難易度も高い。かなり高い。失敗は許されないが、当時のスキルで自分が役に立てるとは到底思えなかった。
だから、断ろうと思った。「夢のようなお話ですが、力不足で私には無理です」と。いまの私は、尻込みする当時の私を見たら活を入れるに違いない。「やってもいないうちから失敗に怯えるの? できると思われたからオファーがきたのよ。できるかどうかは、あなたが決めることじゃない。やりたかったことでしょう? やりなさい!」って。今となっては「女の子は控えめがいいなんて考え方は大間違いです!」とメガホン片手に喧伝しながら歩く私だが、あの頃は私もそういう価値観に染まっていたのだろう。
10歳近く年上だった当時の彼は、私を叱咤激励した。ぜひやるべきだと。困ったことがあったら手伝うとまで言ってくれた。それでも渋る私に、最後に言い放ったのが「ここで決断できないような子は好きじゃないな」だった。情けないことに、嫌われたくなかった私は「じゃあやる」と言ってしまう。最低!
彼のおかげで、私のキャリアは一気に広がった。その点では本当に感謝している。あれがなかったら、今日の私はなかったと思う。だけど、愛情と引き換えに、やりたくないことをやらせるような言い方は間違っている。ようやくそこに気がつけた。
うじうじする私に最も効く言葉を選んだのだとは思う。それでも、やっぱりあれは間違っている。好きな相手にそんなことを言っちゃいけない。結果オーライとは言え、そこで勢いづいた私も間違っていた。あー恥ずかしい。
多大なる感謝があったから、怒りに到達するのに時間がかかってしまったのだろう。ま、勢いづいた私は数年後に次の転職をして、そのタイミングで次のステップにコマを進めたかった彼と意見が合わずに振られてしまうのだけれど。
こういうのを読むと、僕自身も、同じようなことを誰かに言われた記憶と、言った記憶が蘇ってきて、困惑してしまうのです。
確かに、そんなふうに、「愛情と引き換えに、やりたくないことをやらせるような言い方は間違っている」。リアルタイムでは、その言葉に「嫌われたくない」と思ったのも間違い無いでしょう。
でも、そこまで言われたことを、「やっぱりやりたい」という自分の本心に従う理由にしてしまった面もあるとは思うのです。
本当にやりたくないことだったら、やらなかったはず。
結局、別れてしまった相手だから、過去の記憶が「汚化」されてしまったのかもしれないし、そういう言葉を使う相手だったから、別れることになったのかもしれません。
恋人や配偶者に限らず、親子の関係とかでも、こういう「思い出し怒り」や、逆の「今は感謝している」っていうのはありますよね。
以前、文章を書く人にとって大事な資質を問われたある作家が、その資質のひとつとして、「昔のことをそのまま覚えていること」だと答えていたのです。
歳を重ねた自分の現在の感情で上書きしてしまわずに、当時の気持ちをそのまま保存しておくというのは、なかなか難しいことではありますよね。
人間は、これまでの記憶がなければ「その人」ではいられないけれど、いろんなことを忘れたり、感情を薄れさせたりしなければ、生きていくのが辛くなってしまう。
ああ、でも、疲れているとき、行き詰まっているときって、こんなふうに、昔の記憶がふとよみがえってきて、混乱することってありますよね……
僕は男なので、同じことを彼女に言われたらどう思っただろう、ということも、想定してみるのです。そうすると、性差の問題とか、時代の空気とか、さらにいろんな要素が加わってしまう。
このエッセイ集のなかで、いちばん印象に残ったのは、この文章でした。
触らない方が良いことは重々承知の上で、我慢できずにブツブツを指でなぞる。こういうこと、確か前にもあったような。そうだ、あれはうんと昔のこと。別れることが決まった恋人と最後の旅行をすることになり、どうしても彼の心を取り戻したかった私は、少しでも可愛く見えるようにと女湯に浸かりながら顔面を長時間グイグイとマッサージした。のぼせるまでやった。焦る気持ちがそのまま指先に宿ったのか、風呂からあがった私のフェイスラインには、まんまと小さな青あざがふたつみっつできていた。馬鹿力がすぎる。
だいたい、別れると決まってから旅行にいくこと自体が尋常ではない。なんであんなことをしたんだろう? 何事もなかったかのように二人でごはんを食べて、カラオケをして、やることをやって、泥酔した男は最後に「本当に好きなのはキミなんだ……」と泣いた。わけがわからなかった。あなたに好きな人ができたから別れることになったっていうのに。
大人になってからわかったことはたくさんあるが、「なにを考えているかわからない相手はたいていなにも考えていない」もそのうちのひとつ。当時の男も、特別な考えがあって言ったわけではなかったのだろう。メランコリックな状況と酒に飲まれ、思わず口をついて出ただけ。それがわからなかった私は、ずいぶん長いあいだこのセリフを引きずってしまった。どうしてあんなことを言ったの? と。当時の私の肩を抱きかかえて言ってあげたい。「なにも考えていないからよ」。
「なにを考えているかわからない相手はたいていなにも考えていない」
これは本当に至言だと思います。
僕もこれに気がつくまでに、半世紀くらいかかってしまいました。
人は、その場の雰囲気や勢いで、思ってもいないことを口にすることが少なからずあるのです(僕もあります)。
そして、言った本人は言ったことさえ忘れているのに、相手はそれをずっと覚えていて、あれこれ「解釈」して長いあいだ引きずってしまう。
言葉より行動を見たほうがいいし、人間は大概、その場の思いつきや惰性で言葉を発したり、行動したりしているのです。
ファッション雑誌に載っていそうな女性向けの「癒しエッセイ」だな、と思いながら読みはじめたのですが、僕と近い年齢のジェーン・スーさんがこれまでの人生で得てきた「経験知」が詰まっている本でした。