琥珀色の戯言

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ネットと読書の共通点と相違点(1)〜「共感」について

参考リンク:ネットと読書 どちらがより有意義なのか? | ライフハックちゃんねる弐式


いま、僕が考えている「ネットと読書」についてのあれこれを、じっくり語ってみたいと思います。
僕は「ネットも読書も」かなりやっている(というか、「自分の時間」の大部分は、このどちらかをやっている)人間なのですが、両者には、2つの「共通して得られるもの」があるようです。
そのひとつめは、「共感」で、ふたつめは「情報」なのですが、今回はまず「共感」についての話をしていきます。
いやまあ、「共感」と「情報」のあいだには、クリアカットに線引きできるとは限らないケースもたくさんあるのですけどね。


読書とネットの大きな共通点は、「他人が何を考えていて、どんなふうに生きて(あるいは、生きさせられて)いるのか?」を知ることができることです。
ネット以前の時代に、僕たちがそれを知るためには、「本を読む」か、「誰かの話を聞く」しかありませんでした。
「本」ができる以前は、まさに「口コミ」でしか、「他人の考え」や「他の人はどんな目にあっているのか」を知ることができなかったわけです。
そう考えると、「本」(あるいは文字・活版印刷術)というのは、すごい発明ですよね。これによって、人間の「内的世界」は、劇的に広がりました。


僕が子どもの頃には、ネットは「SFの世界に出てくるもの」でしたから、僕が他人の「人生」を知ることができたのは、「本」のおかげです。
当時は、偉人の伝記や「まんが日本の歴史」が大好きで、「フィクション」よりも、「伝記」や「歴史」を中心に読んでいました。
フィクションで好きだったのは、「怪盗ルパンシリーズ」くらい。「少年探偵団」や「名探偵ホームズ」は「子供っぽいから嫌い」だったのです。
いまから考えると、子どもって、「子供っぽいもの」を必要以上に嫌うよなあ、当時読んでおけばよかったのに、なんて思うのですが。

中学生〜高校生くらいから「小説」も読むようになりましたけど、それが僕にとって二番目に役に立ったのは、自分に起こるさまざまな「嫌なこと」や「つらいこと」が、「自分だけに起こっていることではない」というのを知ることができたことでした。
いちばん役に立ったのは、「休み時間に話し相手がいなくても、本を読んで孤独を隠すことができたこと」だったんですけどね。


人間って、本当に理不尽な生き物なんですよ。
小学校低学年向けに書かれた「偉人伝」に書かれているような素晴らしい人間は、この世には存在しない。
あの渡辺淳一先生の『遠き落日』を読んで、医学生だった僕は、研究の鬼であるのと同時に、浪費と女遊びがやめられなかった野口英世の「実情」に驚きましたし、芥川龍之介の『地獄変』に自分が魅かれる理由もよくわかりませんでした。
最近も、モームの『月と六ペンス』を読んで、主人公の「突然妻を捨て、友人の好意を踏みにじって絵を描き続ける男」に「なんて酷いヤツなんだ」と憤りつつも、ある程度年齢を重ねてくると、そういう生き方も「なんかわかる」ようになってきたのですが。
それは、「許す」とか「許さない」とかじゃなくて、「世の中には、そういう人がいるのだ」あるいは、「そういう人がいるのが、世界という場所なのだ」という、ひとつの「悟り」みたいなものかもしれません。
そして、自分自身も、いつかその「理不尽な存在」になってしまうのではないか、と想像することがあります。


「他人の体験に共感することくらい、ネットでも可能でしょう?」
たぶん、あなたはそう言うのではないかと思います。
僕もネットに最初に触れたときは、そう感じていました。
いや、当時、10年以上前は、小説なんかよりもずっと、「ナマの一般人の体験談」がネット上にはあふれていたくらいだったんですよ。


でも、残念ながら、ネットのそういう文化は失われてしまいました。
「感じたことを正直に書く人たち」のサイトやブログは、どんどん「そんなことを書くのは不謹慎だ!」「職業倫理に反する」という「善意の人々」によって「炎上」するようになり、「ネット上での自分語り」は難しくなっています。
そして、ネット上で語られる「体験」や「人格」というのは、短かすぎて、「人間の多面性」みたいなものを語り切れていないような気がするんです。
ちょっと長くなると、誰も読んでくれなくなるしね。
誰かの「体験談」が「美談」としてどんどんブックマーク、ツイートされて持ち上げられ、しばらくすると、その話のアラがどんどん探られて、書いた人や登場人物が責められるようになり、地に引きずり落とされる、その繰り返し。


「本」というのは、基本的に「作者」と「読者」の一対一の関係です。
とりあえず、その物語を読み終えるまでは。
読者は、その物語の中にいる時間は、主人公のさまざまな「不快な行動」「理解できない思想」にも付き合わざるをえません。
「名作」と言われている小説の大部分では、登場人物は、かなり「読者が反感を持つようなこと」をやるのです。
小説を読むことによって学べるのは、ものすごくあたりまえのことなんだけど、世の中にはいろんな人がいて、「それぞれの人はまた、いろんな面を持っているのだ」ということなんですよ。
真っ白な人や真っ黒な人がいて、全体として灰色になってるわけではなくて、ひとりの人間のなかに白と黒が入り混じっていて、そこで自分なりの「判断」をしていかなければならない。


ネット上の文章では、その多面性を表現できるだけの情報量がなく、また、作者と自分以外の第三者からの「評価」が耳に入ってきやすいため、どうしても、「白か黒か」に二極化してしまいがちです。
ネット上で他者を評価する言葉は、概して短いものですから、「好き」「嫌い」あるいは「正しい」「間違い」というシンプルな結果に偏りがちになります。
ネット上では、他者に「すべて共感する」か、それとも「ぜんぶ批判する」かの両極に分かれ、そのどちらか一極に、一斉に多くの人がなだれ込んでいきます。


本というのは、「灰色」を人々に教えてくれて、「ああ、みんな灰色なんだ」と「共感」させてくれるツールです。
もちろん、ネットでもそれが不可能なわけではありません。
僕が以前書いた「世の中には、天性の「イジメ上手」がいる。」というエントリなのですが、これは、「イジメ上手な人」の犠牲になっているのは、あなただけじゃない。あなたが悪いから、そんな目にあっているわけじゃない。だから、負けないでほしい」という想いをこめて書きました。
みんなが共感してくれるなんてことはありえませんが、1000人にひとりでも、「そういうものなのか、オレが悪いんじゃないんだな」と感じてもらえれば、それでよかった。
そういう現実が世界にあることを「知っている」だけで、自分を客観的にみることができる可能性はかなり高くなります。
少なくとも、僕はそう信じて「自分語り系」のエントリを書いていますが、なかなかうまく伝えるのは難しいな、と思うことばかりです。
いや、うまく伝わらなくてもいいんじゃないか、という気もするのだけれど。
あるいは、ノイズ混じりのほうが、「ちょうどいい」のかもしれないし。
ただ、読書という体験が映画館で観る映画とするならば、ネット上での文章というのは、お茶の間で家族一緒に観るテレビ放映された映画のように感じることがあります。
ワイワイガヤガヤ、みんなであれこれツッコミながら観るのは楽しいけれど、思索にふけりながら観たい映画には、あまり向いているとは言えません。


 村上春樹さんが、小説(物語)の役目について、こんなことを書かれています。

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。


 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。


 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

今後は変わってくるであろうと期待しているのですが、現時点では、ネット上で「良質の物語」は見つけにくいし、その物語と読者が一対一で向き合うことも難しいと思うのです。
ネットの世界では「書いてあることを、まず、そのまま受け止めてみる」よりも、「書いてあることに対する、自分の立ち位置を早々に決定することが要求されがちだし。
だから、僕は「共感する力」そして、「間違った物語を見分ける力」を鍛えるために、「本を読む」ことを薦めたいのです。
他人の意見を参考にすることは大事です。
でも、自分ひとりで何も考えたことが無い人間にできるのは「参考にすること」ではなく、「流されること」だけだから。



次回はネットと読書の2つめの「共通の意義」である、「情報を得るためのツール」としての両者の共通点と相違点について書く予定です。
(「次回」がいつになるかは未定)

遠き落日〈上〉 (集英社文庫)

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遠き落日〈下〉 (集英社文庫)

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地獄変 (集英社文庫)

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月と六ペンス (岩波文庫)

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